石の宝殿、生石神社(おうしこじんじゃ)を訪問しました。
石の宝殿は日本三奇のひとつです。
※日本三奇
・生石神社 石の宝殿 兵庫県高砂市
・御釜神社 四口の神釜 宮城県塩竃市
・霧島東神社 天の逆鉾 宮崎県高原町
生石神社は宝殿山に鎮座されていて、付近の山全体を竜山(たつやま)といいます。
竜山から採れる石は、古墳時代から広く使われていて、近畿の長持形石棺はすべて竜山石で作られているそうです。
石の周囲の屑石は、神社の北にある霊峰高御位山(通称播磨富士)の山頂に猿が先導し、牛馬で運び置かれ、その形から鯛砂利といわれている。
生石神社の縁起 説明看板より
高御位山と名付けられたのはこの故による。
石の周りの水は霊水で、いかなる干魃においても渇することなく
海水の満干を表し、万病に効能がある。
生石神社の鳥居の横には「家紋石」と呼ばれる紋を刻んだがあります。
家紋石はもともと観濤処の尾根にあったそうですが、採掘作業で崩れ落ちたため、ここに移されました。
誰が作ったのか、いつ作られたのかはわかっていないそうです。
鳥居をくぐって石段を上がり神門をくぐります。大石の前にお賽銭箱がありました。
浮石
本当に大きい石で、横は7m四方、高さ6m、重さ500〜700t。
この石の周囲を切り出して、残ったのがこの石です。
石の後ろ側にはでっぱりがあります。この形から、家を横に倒した形に見えるとの説があります。
しかし、この石を何のために作ったのか。彫った石をどうやって運ぶつもりだったのかはわかっていません。
播磨風土記 印南郡の条には、次のように記されています。
原の南に作石がある。形は家のようである。長さは2丈、広さ1丈5尺、高さも同じくらい。大石と呼ばれている。「聖徳太子の時代に弓削大連(物部守屋)が作った石」と伝えられている。
物部守屋が丁未の乱で敗死したのは用明天皇2年(587)。播磨風土記は霊亀元年(715)頃に成立したと考えられています。
約100年前のことになるのですが、本当に物部守屋が造ったのでしょうか?
この巨石は周囲に水が巡らされていて、水に浮かんでいるように見えます。
池の水は「不増不滅の水」といわれ、常に水量が変わらないとされています。
この水はどこから流れてきているんでしょうか。
この石の周りを年の数だけ回ったら幸運が来るとか。
自分の年の分だけ回ると目が回ってしまい、完走できないと思い、やめました。
山上公園
生石神社の上にある山上公園には大正天皇も登られたことがあり、大正天皇行幸の石碑があります。
山上から見た播磨平野。天気が良かったので気持ちが良かった。