斑鳩寺は聖徳太子が建立したとされるお寺です。
伝承によれば、推古天皇14年(606年)に、聖徳太子が推古天皇からこの地を賜り、斑鳩荘と命名されお寺を建立したと伝えられています。
山門の前に「聖徳太子の教えを守って1400年」という幟がありました。推古天皇からこの地を賜ったのが606年なので1400年です。
1400年という数字に驚きます。
山門の仁王様は迫力があります。怖いお顔で仏敵からお寺を守ってくれています。
境内には聖徳太子がおられます。
残念ながら建立当時の建物は戦国時代に燃えてしまったそうです。
太子町のホームページには次の話が記載されていました。
戦国時代の天文6年(1537)、出雲の尼子詮久(あまごあきひさ)が播磨に攻め込み、現たつの市新宮町越部の城山城(きのやまじょう)に入りました。そのため、人々は合戦を恐れ、斑鳩寺などに逃げ込みました。詮久は同9年(1540)には出雲に引き上げますが、混乱はおさまらず、人々は避難したまま斑鳩寺境内などに留っていました。そんな天文10年(1541)4月7日夜丑刻、避難民の小屋からの出火、斑鳩寺は全焼してしまいました。
太子町ホームページより
敵の尼子勢に出雲から播磨に攻め込まれるという大事件があったようです。戦国時代とは恐ろしい時代だったと思います。
講堂
天文10年の大火のあと、弘治2年(1556)に再建された建物を、明和年間(1764~72)に建て替えたものです。
聖徳殿
聖徳殿前殿は聖徳太子みずから作られたと伝えられる聖徳太子十六歳孝養像が安置されているそうです。天文10年の大火のあとに再建された太子堂を、寛文5年(1665)に建て替えたものです。
聖徳殿後殿は八角形の形が印象的です。国の登録文化財に指定されています。
三重塔
三重塔は国の重要文化財に指定されています。
天文10年(1541)の焼失後、龍野城主・赤松政秀らの寄進により、永禄8年(1565)に再建されたそうです。
鐘楼
天文10年(1541)の焼失後、天正3年(1575)以降に赤松広英によって再興されたと記されています。
赤松広英は赤松政秀の子で、羽柴秀吉が播磨に侵攻してきたとき、秀吉に降伏しました。
その後、秀吉に味方して働き、竹田城主になりました。
それにしても、1400年の歴史があるというのはすごいと思いました。