野口城址・光慧大明神

秀吉が戦った野口城址を訪ねました。
三木城の別所勢と秀吉が対立したとき(加古川評定)、野口城は別所方についたため、秀吉に攻撃されました。
教信寺から野口神社の方向ですぐの道を左に入ると小さい祠があります。
この祠が野口城の跡でした。

光慧大明神
野口城址の額

平野通庸(播磨鑑の編者)の野口城址を自分なりに書いてみます。

野口城 長さ四十三間 積二十間 野口庄 在李家村、四方沼田要害の城。今は田地と成り、村より半丁北の方 縄張り竹藪外に堀構。
城主は長井四郎左衛門 知行三千石 三木別所長治の幕下となり太守別所長治、羽柴秀吉と確執に及び籠城し給う。故に幕下の小城思い思いに立てこもる。
秀吉の大勢三木を攻めんとき幕下の軍兵後ろより囲み打破らんと企てける。
あえて秀吉は近国を随え書写に帰り給いければ、明くる天正六年三木別所 亡ぼさんがため、勢を集め先幕下の小城を攻めとらんと、同年4月一旦坂元を進発して野口の城に押し寄せ鬨をどっと揚げれば、長井も兼ねて覚悟の事なれば一族郎党等切て出、一命を不惜、散々に戦いにけり。
されども寄せての大勢荒手を入れ替え透き間なく無二無三に攻めければ城の兵百余騎打れければ、今は長井も為方なく冑を脱ぎ郎党に持たせ降人に出ける
同年三日終に落城してけり

凄まじい戦いがあったようです。

祠の裏手が小山のようになっています。土塁の跡のようです。

野口城が落城したのは天正6年4月。
三木城落城は天正8年1月。約2年に渡る戦いが繰り広げられました。