野口神社

五社宮野口神社は約350年前に創建されました。

わがまち加古川60選では次のように説明されています。


旧西国街道にある神社の主神は日吉大神(ひえのおおかみ)で、比叡山延暦寺の守護神日吉大社から分霊をお迎えし、のちに四柱の神を合わせ祀ったという説もあります。

神社の西にある教信寺は延暦寺の末寺であることから深いつながりがあります。

近くには野口城址、教信寺
があります

神社の案内看板に野口神社の由緒が詳しく説明されています。

由緒略記
 播磨は古く中央政権への「文化の通り道」としての役割があり、近代国家建設に貢献した渡来系の人たちが往来しました。
仏教伝来の流れの中で寺院が建てられ、古代寺院として奈良時代(8世紀)に野口神社のところに寺院(通称「野口廃寺」)が建立されました。近くには秀吉により天正6年(1578)に攻め落された野口城がありました。
のち江戸時代慶安4年(1651)に社殿が、寛文6年(1666)に鳥居が建てられ、山王五社宮(五社大明神、五社山神宮寺)として約250年間、社僧12代により栄えてきました。
 江戸末期には頼山陽(1780〜1832 儒者、歴史家)が立ち寄り、
「近環松柏見威霊之森巌 遙面波涛知膏澤之 弥満」
(近くに松柏をめぐらした威厳に満ちた深い森を見、はるか向こうに瀬戸内の波をながめ、人を豊にし幸福をもたらす恵みが一面に広がっていることがわかる)
という詞を読みました。
神社の前の道は西国街道で、江戸時代参勤交代が行なわれ、伊能忠敬などが通りました。
明治になり政府は神道を国教と定め「神仏判然令」(1868年)を出して神と仏を厳然と区別しました。その結果、神社にあった神宮寺はただちに撤去され、社名も五社宮(5つの神を祀るので五社宮という)から野口神社と改称されました。
 祭神は比叡山の麓の山王総本宮日吉大社より勧請(分霊をお招き)した大山咋命(通称名日吉大神)を主祭神とし、他に4祭神よりなります。

御祭神
・大山咋命(日吉大神)オオヤマクイノカミ
・品陀別命(八幡大神)ホンダワケノミコト
・須佐之男命(八坂大神)スサノオノミコト
・速玉男命(熊野大神)ハヤタマノオノミコト
・天伊佐々比古命(日岡大神)アメノイササヒコノミコ

大山咋神は、大年神(オオトシカミ)と天知迦流美豆比売(アマチカルミズヒメ)との間に生まれた神で、須佐之男命(スサノオノミコト)の孫です。お酒の神様でもあります。

一の鳥居
鳥居と神門
御神木
手水舎
神門
拝殿

拝殿前の注連柱には頼山陽が読んだ詞が刻まれています。

「近環松柏見威霊之森巌 遙面波涛知膏澤之 弥満」
(近くに松柏をめぐらした威厳に満ちた深い森を見、はるか向こうに瀬戸内の波をながめ、人を豊にし幸福をもたらす恵みが一面に広がっていることがわかる)

野口神社の由緒略記より

頼山陽は江戸後期の学者、思想家です。姫路藩の河合寸翁と交友があり、河合寸翁が建てた仁寿山黌で講義を行っています。著書には「日本外史」などがあります。