上月城

織田対毛利の戦いがあった上月城を訪問しました。

上月城は鎌倉時代末期(1300年代)に赤松氏の上月次郎景盛によって築かれました。
上月城は播磨、備前、美作の境界に位置し、北には美作街道、東には鳥取と赤穂を結ぶ街道が通っており、戦略的に重要でした。

嘉吉の乱(1441)により赤松総領家が没落。上月城は山名氏によって落城し、播磨は山名氏に支配されます。
その後、赤松政則が赤松氏を再興し播磨を取り戻しますが、播磨では赤松、山名、尼子等が攻防を繰り返す舞台になりました。
天文年間(1532〜1555)には尼子氏の播磨進出があり、上月城は尼子氏によって落城しました。
永禄年間(1558〜1570)には、上月城は毛利の支配下にあったと伝えられています。

第1次上月城戦

上月城の周りには支城、砦が多く、激戦が繰り広げられたようです。

天正五年(1577)、羽柴秀吉の播磨侵攻が始まりました。
このとき、播磨の諸武将は織田・秀吉の味方につきますが、毛利方であった上月城主・赤松政範は秀吉に従いませんでした。
秀吉は11月に佐用郡に入ります。
竹中半兵衛、黒田官兵衛により11月27日福原城が落城。
秀吉軍は翌28日に上月城を包囲します。
12月3日に城に攻め入り、上月城を落城させました。
上月城主・赤松政範は自刃。城中の者が城主の首を持ってきたという説もあります。

このときの秀吉は凄まじく残酷です。
すべての城兵は斬首し、敵方への見せしめとして城に残っていた女・子供二百人余を播磨・美作・備前の国境で、子供は串刺しに、女は磔にして並べました。

秀吉は寛大で人を殺すのが嫌い、ということになっていますが、本当のところはわかりません。
上月城主の妻は、黒田官兵衛の妻・光の姉で、官兵衛と上月城主・赤松政範は義兄弟でした。
官兵衛は秀吉の残虐な行為をどう思ったのでしょうか。

この後、上月城は尼子勝久、山中鹿之介らに守らせます。

第2次上月城戦

天正六年(1578)4月、毛利輝元が率いる三万の大軍に包囲されます。
救援に向かった秀吉は高倉山に陣を張るとともに織田信長に応援を求めました。
信長は嫡男・信忠ら二万八千余騎の軍勢を送りますが、上月城を救うことはできず膠着状態が続きました。
このときの毛利軍の軍勢は六万という説があります。

この状況を見て、織田信長は上月城からの撤退、三木攻めに集中することを決めます。

上月城から織田軍は撤退。孤立した尼子勝久は毛利氏に降服し自害しました(天正六年7月)。
山中鹿之介は捕らえられ、備後国鞆に移送中、高梁川の阿井の渡し(高梁市)で殺されました。

この戦いの後、上月城の名は歴史に出てこなくなります。

上月城への登り口
山の中に入っていきます
道はかなり険しいです。
主郭が見えてきました。
主郭は広くなっています。
赤松氏の供養塔があります。

上りも険しかったが、下りはさらにきついです。
下山道を行かずに、Uターンして上ってきた道をそのまま引き返すほうが安全です。
今回は、そういうことを知らずに下山道の方へ行ってしまいました。

ちょっとわかりにくい分岐点。
カラーの看板の「下山道への矢印」の方へ行きました。



どこが道か?わかりにくい

なんとか下まで降りることができました。

登り口の横に尼子氏らの追悼碑があります。

上月城戦没者合同慰霊碑
尼子勝久公四百年遠忌追悼碑
山中鹿之介追悼の碑

坂が険しい山城です。
重い鎧を着て、こういう城を短期間で攻略するのは大変だったんだろうと思いました。
そして、秀吉の残酷な一面も知りました。