高砂にある十輪寺を訪問しました。
本尊は阿弥陀如来。法然上人二十五霊場第三番です。
十輪寺は弘法大師空海により真言宗の寺院として創建されます。
空海が唐への旅の途中、高砂まで来たとき、色鮮やかな雲が現れました。これを見た空海は、地蔵菩薩が地上に現れるときに発生する赤光(しゃっこう)だと考えました。
唐から帰った空海は弘仁6年(816)十輪寺を創建します。
当初の名は地蔵山十輪寺。海上から見た赤光にちなんだ山号でした。
平安末期の承元元年(1207)、浄土宗の開祖・法然が讃岐に流罪になります。讃岐へ流される途中、法然は高砂に立ち寄ります。
このとき高砂浜の漁師・八田治部太夫夫妻が殺生の罪を悔い、法然に教えを求めます。
念仏を唱えると極楽に行けると説いた法然。この教えが広まり、浄土宗の寺院となりました。
山号が地蔵山から宝瓶山にかわったのは室町末期、
大永7年(1527)に十万上人が法然上人自画賛の「宝瓶の御影」を十輪寺に奉納されたことから山号がかわったとのことです。
「宝瓶の御影」は法然の頭の上に宝瓶がのった画です。宝瓶は水瓶のようなもので、これが頭にのっているというのは変です。が、勢至菩薩様が宝冠の正面に水瓶をいただいている点を真似たもので、法然は勢至菩薩であるということを示しているようです。
山門は享保十五年(1730)建立。本堂は悦道上人により元禄六年(1693)に再建したとされます。
庫裡は元禄十年(1697)頃、大玄関は正徳二年(1712)頃、小玄関は宝暦二年(1752)頃の建立。
舟子供養塔は高麗仏と呼ばれる宝篋印塔です。
文禄元年(1592)、豊臣秀吉が朝鮮に出兵(文禄の役)。高砂から100人の舟子が徴用されますが、96人が暴風雨で死亡しました。
その供養のために建てられたものです。
境内には相馬犬の塚、茶筅塚と行った石碑が並びます。
工楽松右衛門は高砂出身の船主で、帆布や新巻鮭を発明し、港を築きました。
従来の帆布を強化した「松右衛門帆」の発明は、船の航海性能を大幅に向上しました。
「工夫を楽しむ」ということで「工楽」という名を賜りました。
工楽松右衛門邸が十輪寺の近くに残されています。
布舟は江戸時代中期の俳人。
酒造家のかたわら俳人として活躍し、与謝蕪村らと交流しました。
梶原景秀は源平合戦で活躍した梶原景時の子孫で、加古川の河口にあった高砂城の城主です。
天正6年(1578)から始まる秀吉の三木城攻めの際、三木城に籠城する別所氏に味方し、加古川を使って三木城に武器、兵糧を送りました。
これを知った秀吉勢に居城の高砂城を攻められますが、毛利の助けを受け、一度は撃退します。しかし、秀吉は海路を抑え毛利の支援を防ぐとともに、大軍を持って高砂城を再攻撃。高砂城は落城。景秀は鶴林寺の近くに隠れ住んだと伝えられています。
関東のイメージが強い梶原氏ですが、寿永3年(1184)に梶原景時が播磨守護になったために、播磨との関係ができたようです。
戦国時代、三浦半島を本拠としていた三浦氏は永正10年(1516)北条早雲に攻略されます。
三浦氏の幼君義高は永正15年(1518)頃、高砂城主・梶原家を頼って高砂に移りました。
三浦氏はその後、商人となり塩屋甚兵衛と称し、行政、その他に大きな功績を残します。
初代塩屋甚兵衛から7代目の宗載の次男・三浦松石は高砂に開設された申義堂の教授として教育に当たりました。そして松石の次女・つるは高砂の漢方医であった美濃部秀芳と結婚し、天皇機関説をとなえた美濃部達吉氏が生まれます
高砂に関東武士の梶原氏や三浦氏が来ていたという事実に驚きました。源平合戦、承久の乱で勝った東国武士が西日本に領地を得たということだと思いました。
また、その流れから教育者が生まれ、美濃部達吉氏につながるという歴史に感慨を覚えました。
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