みちのく小京都・角館

薬医門

秋田県・角館で武家屋敷・青柳家を訪問しました。

秀吉の天下統一の頃、佐竹義宣は水戸に居城していましたが、関ヶ原の戦いのとき西軍に組みしたと思われ、慶長7年(1602)秋田に転封されます。佐竹氏は久保田城を居城としました。また、佐竹義宣の実弟蘆名義勝が角館に入ります。
その後、承応3年(1653)蘆名氏断絶。
明暦2年(1656)佐竹氏の分家・佐竹北家の佐竹義隣が角館に入り明治まで続きました。

青柳家は蘆名氏の家臣として角館に入ります。蘆名氏断絶後は佐竹家臣となり、角館で明治維新を迎えました。
屋敷の入り口に建つ薬医門は藩への功績が認められ特別に許された門です。重厚感がある美しい形をしています。建てられたのは万延元年(1860)。明治元年(1868)まで8年という、江戸時代末期です。250年間の江戸時代。その間、ずっと佐竹北家のために尽くしてきたのでしょう。

邸内は青柳家母屋、武器庫、解体新書記念館、秋田郷土館などがあります。
なかでも、小野田直武という画家と解体新書、さらには平賀源内とのつながりが非常に印象的でした。

邸内の案内図
母屋

武器庫では鎧兜、刀、槍などが展示されています。
槍は、長さは短いものでしたが、ずっしりと重く、戦場でこれを自由自在に振り回して戦うのは大変だと思いました。

小野田直武

小野田直武は「解体新書」の挿絵を書いた画家でした。そして、その絵の技法は平賀源内に学んだといいます。

小野田直武像

安永2年(1773)、平賀源内が秋田の鉱山開発のため角館に来たときに、宿舎で屏風絵を見て、その巧みさに驚き、屏風絵を描いた直武を宿舎に招きます。このとき、直武に鏡餅を描かせてみます。輪郭を描く日本画では二重円を書くだけで、餅を表現できません。そこで、源内は学んでいた西洋画の陰影をつける技法で餅が表現できることを示します。また、源内は遠近法などの技法も直武に伝えました。
秋田での鉱山開発が終わり、源内は江戸に帰ります。
そこへ直武は佐竹家から「産地他処取次役」という役に任じられて、源内のもとにやってきて弟子入り。西洋画の技法を学びます。

安永3年(1774)、「解体新書」の挿絵を描く。
「解体新書」はオランダの解剖学書「ターヘル・アナトミア」を翻訳した医学書です。訳したのは、杉田玄白、前野良沢たち。
杉田玄白から挿絵を描く画家を探していることを知った平賀源内が直武を推薦しました。

安永6年(1777)、直武は秋田に戻ります。秋田では秋田藩主・佐竹曙山、角館領主・佐竹義躬にその絵画技法を伝えます。この時代、藩主や領主も絵画を学んでいたました。彼らが起こした画風は「秋田蘭画」と呼ばれ、西洋画の陰影、遠近法を日本画に取り入れた折衷画法でした。
安永7年(1778)、再上京。
安永8年(1779)、平賀源内が刃傷事件を起こし、獄中で死去。直武は秋田に帰ります。
安永9年(1780)、直武死去。死因は不明。31歳でした。

直武から青柳家に贈られた解体新書が展示されています。表紙の男女の絵は教科書で見たことがあります。この絵を直武が描いていたのですね。

「解体新書」に直武は次のような序文を遺している。人柄をしのばせる文章だと思う。

我が友人杉田玄白が訳す解体新書が完成した。自分にこの図を写さしめたのだが、紅毛の図を十分に写せるだろうか。自分のような才知のない者が取り組むべきものではないだろう。それでも描けないといえば友から怨まれる。友の怨みを買うよりはあえて恥をさらすほうがいい。心ある皆さん、どうかお許し願いたい。
秋田藩 小野田直武