姫路城の北西約1kmのところにある八丈岩山に登りました。
標高は172m。
播磨風土記にでてくる14の丘のなかで、八丈岩山は因達神山(いだてのかみやま)に比定されています。
ふもとに大歳神社があります。
境内の看板に次のような説明がありました。
新在家村と大年神社
新在家村は慶長年間(1596〜1615)以前には矢落村と呼ばれ、平安時代の「和名抄」の印達郷(いたちごう)、奈良時代の『播磨国風土記』の飾磨郡の因達里(いたちのさと)に推定される地である。因達里の由来は伊太代(いたて)の神がいる場所とし、八丈岩山に鎮座していたと考えられている。
明治二二年(1899)新在家・御立・田寺・辻井の四ヶ村が合併して安室村となり、昭和一一年(1936)姫路市に合併された。
寛保三年(1743)の「新在家村寺社明細帳」には、観音寺・大歳大明神・弁財天堂・荒神堂・若宮堂が記され、今も観音寺・大年神社・弁財天・竈(かまど)神社・若宮神社があり、江戸時代の姿をよく残している。向山にある竈神社(荒神堂)の参道脇にある文化一四年(1817)と文政元年(1818)の常夜燈は大年神社(大歳大明神)から移設したものという。大年神社は、現在、新在家六町の氏宮として、秋祭には獅子舞や屋台(太鼓屋台)が繰り出され、大祓祭や節分祭等の祭礼行事も行われている。境内にはかつて通過儀礼として使われた力石がある。
平成ニ六年六月 姫路市教育委員会
矢落村の名前がここにもありました。 ここも神功皇后の行矢伝説に関係があったようです。
新在家登山口に到着。大歳神社から、ここまでの上り坂が自転車にはきつかった。
ここから登ろうかと思ったが、なんだか急坂に見えました。
ここから登るべきか?
迷っていたら、少し手前に八丈岩山登山口の矢印を見つけました。
しかも、なんだか傾斜がゆるそう。普通の登り口はこちらからなんだと思い進んでいきました。
最初はよかった。
ところが途中からなんだか傾斜がきつくなる。登山道の横にロープがありました。そのときは、これは道に迷わないようにロープを張ってくれているのだと思いました。ところが、道を進むにつれ、このロープをつかんで、引っ張り上げないと前に進めない・・・。
なぜ、このロープが必要かよくわかりました。
この道はものすごく急だ!
ハアハア言いながら登りました。
やっとのことで、急傾斜を乗り越えて頂上についたと思ったら、そこは頂上ではなかった。
頂上は右手の方にありました。
途中で大きな岩がある。こういう岩があるので八丈岩と名付けられたのかと思いました。
この岩の横を歩き、とうとう頂上に到着。
そこには八丈岩山の名の由来になった八畳岩がありました。
疲れた〜と思ったら、小さな子供の声がします。
おばあさんが孫二人を連れてきていました。子供は元気だ、おばあさんも。
頂上には石碑と祠、八丈岩山の説明看板がありました。
この山頂の岩に含有されている成分から、約一億五千年前に海底から隆起して出来た、姫路で一番地層の古い山です。
八丈岩山は、昔から聖な山として因達(いたて)神山といわれ因達神(スサノオノミコトの子)射楯(いたて)神が祀られていた。
現在、播磨国総社と辻井行矢神社の祭神はこの神です。
この地に設置されている石柱には、「高岡神社舊蹟(きゅうせき)」「天長三丙午年(ひのえうま)(西暦826年)九月九日影向(ようごう)」と表記されています。
高岳神社は、古くはこの近く新在家八丈岩山の宮谷「鳶か巣」に鎮座(設置)されていた。
その後、現在の「西今宿」蛤山に遷座しました。
明治四年(西暦1871)高岳神社から田寺村氏神として高岡神社を分社し現在に至っている。
設置者 安室中学校区地域夢プラン実行委員会
設置承認 新在家土地利用組合
頂上から見る景色は素晴らしかった。
ここから播磨風土記の14の丘である姫山、男山、景福寺山、薬師山、御前山、神子岡山(名古山)が眼下に見えます。
なんだか、八丈岩山がリーダー的な感じがしました。