赤穂城に行きました。
赤穂城は慶安元年(1648)から寛文元年(1661)まで13年の年月を書けて完成された城です。城を築いたのは浅野長直。忠臣蔵の浅野内匠頭の祖父です。
赤穂城が完成した寛文元年は関ヶ原の戦いから60年、豊臣家が滅んだ大阪夏の陣からも45年が過ぎています。甲州流軍学を取り入れ、海岸近くに建てられた赤穂城は戦争をするためだけの城ではなく、経済の拠点としての役割を担っていたそうです。
そのためか、赤穂城には天守台がありますが、天守閣はありません。
しかし、天守台は結構高く、見晴らしはいいです。海岸に造られた塩田を見通すことができたようです。
江戸時代の地図です。ベージュと砂色のところが塩田です。赤穂市街に対して、塩田の面積がものすごく大きいことがわかります。
赤穂城の東側の東浜塩田は浅野時代に作られ、西側の西浜塩田は森時代(浅野家断絶後の赤穂城主)に造られました。
今の赤穂城は浅野家が作った城ですが、赤穂城の最初は文明年間(1466〜1486)に赤松満祐の一族であった岡光広の時代に作られたと推定されています。
岡氏は相生市若狭野にあった岡城を拠点とした豪族で、東有年の鍋子城の支城として赤穂に城を築いたというのです。このときの城は現在の城より少し北にあったようです。
その後、千種川河口のデルタ地帯が広がっていき、享禄元年(1528)に城が現在の位置に移ります。
豊臣秀吉の時代になり、天正15年(1587)宇喜多秀家が赤穂をおさめます。
その宇喜多秀家は関ヶ原の戦い(慶長5年/1600)で西軍について敗北。
代わりに、姫路藩主となった池田輝政が赤穂も支配します。
そして輝政の部下である垂水半左衛門勝重が今の赤穂城のもとになる城を築くとともに赤穂上水道の建設を行います。
輝政が亡くなったあと、岡山藩主の池田家が赤穂も領しましたが、慶長20年(1615)池田政綱が初めて赤穂藩主となって赤穂藩が誕生します。
その赤穂池田家は正保2年(1645)に改易。浅野長直が赤穂に入り赤穂藩主となり、今の城を築きました。
赤穂浅野家は浅野内匠頭長矩の刃傷事件で断絶。永井家があとを継ぎますが4年で改易。その後、森家が赤穂藩主となり明治まで160年間続きました。
天守台に登ってみました。周りが広々して気持ちがいい見晴らしでした。
二の丸跡に山鹿素行(1622〜1685)の像があります。
山鹿素行は江戸時代前期の軍学者・儒学者です。
承応元年〜万治三年(1652〜1660)の間、赤穂藩主浅野長直に仕え、藩士に兵法を指南しました。
寛文五年(1665)に著書が幕府に咎められ、赤穂に配流されました。
配流中に藩主や重臣のもてなしを受けることが多く、素行の学問を代表する著書を完成したそうです。
山鹿素行といっても、山鹿流陣太鼓ぐらいしか思い浮かばないのですが、この山鹿流陣太鼓はフィクションで、赤穂浪士の討ち入りのときは太鼓を鳴らしたりはしなかったです。
吉良邸に奇襲攻撃をかけているので、太鼓などを鳴らすはずはないですよね。
赤穂城は三の丸に大石神社が建立されたりして、姫路城のようなお城とは全く違うのですが、お堀や櫓もきれいです。
建物がないために、逆に広々とした感じが素敵でした。