高砂の持光寺は播磨善光寺と呼ばれ、「時光寺への三度の参詣は、善光寺への一度の参詣に当たる」といわれています。
立派な山門の前に宝篋印塔が建っています。
山門は三間一戸の楼門構造をしていて、門の両脇には四天王がまつられています。寛政3年(1791)に建てられました。
宝篋印塔は康暦2年(1380)に作られました。
山門の四天王たち
持光寺の縁起などは次のようです。
- 時光上人は清和天皇の皇胤多田満仲公9代の末孫源経家であったが生死無常の念から、西山善恵国師に弟子入りし、持光と名のった。
- 建長元年(1249)時光坊の願望により阿弥陀如来が海中より引上げられ、これを本尊として創建。時光寺と名づけられた。
- 建長6年(1254)勅願寺となり北原の地十余町を寄進された。
- 文永10年(1273)現地に移った。北原の宿が阿弥陀の宿と改められた。これが高砂市阿弥陀町の名の由来となった。
- 延元年間(1336~1340)足利氏の兵火により焼失。
- 暦応4年(1341)尊氏の命によって再建。
- 秀吉の播磨平定戦(1580)で再び焼失。
- 慶長13年(1608)に姫路藩主 池田輝政により現在の本堂が再建された。
境内に戦後記念大佛がおられます。明治40年(1907)に日露戦争の戦没者慰霊のため建立されました。
持光寺が播磨善光寺と言われることになったのには、次の伝承があります。
約400年前、兵庫の浦に熱心な念仏の老行者がいて、毎年欠かさず信濃の善光寺に参っていました。ある時、老齢で遠路参拝するのを哀れと感じた善光寺如来が、時光寺は当山と分身一体の阿弥陀なので、以後は時光寺へ参るように告げられた。ここから「時光寺への三度の参詣は、善光寺への一度の参詣に当たる」と言われています。
持光寺にはいろいろな伝説、伝承がありそうです。