初詣で射楯兵主神社におまいりしました。
天気が良かったこともあってたくさんの人でにぎわっていました。参道にはたくさんの露天が出ていて、おいしそうな匂いがします。
楼門までぎっしり行列ができていました。
楼門をくぐると、企業の名前が描かれたたくさんの提灯が出迎えてくれます。今年が景気のいい年になればいいですね。
射楯兵主神社のご祭神は射楯大神(いたてのおおかみ)と兵主大神(ひょうずのおおかみ)です。播磨国総社ということで、播磨国の数多くの神様がおまつりされています。
「射楯兵主神社史」によると次のような歴史が示されています。
- 射楯神は播磨国飾磨郡因達里(いたてのさと)に鎮座されていた。(播磨国風土記)
- 大己貴命(兵主神)は水尾山にご鎮座された。
- 大己貴命は、そこから国衙のある小野江(梛本)にご遷座された。
この遷座は坂上田村麻呂により延暦5年または6年に行われたとのこと。
坂上田村麻呂は八丈岩山にも登られたとの言い伝えもあります。播磨姫路に来られたのでしょうか。 - そこに射楯(五十猛)が合わせ祀られた。
- 古代末期に播磨国の神々が合わせ祀られ、総社と称されることになった。
- 中世以降、府中惣社・国衙惣社・府中社などと称されることが多くなる。
- 明治維新後、改めて射楯兵主神社であることが公的に確定された。
当初は姫路市辻井の行矢神社が射楯兵主神社とされていましたが、明治3年〜4年に古文書から総社が式内社であることがわかり、総社こそが射楯兵主神社と確定されました。
知性の象徴、吉兆を授けるミミズク。射楯兵主神社の神の使いとして尊ばれてきたそうです。
ミミズクはローマ神話でも知性の象徴とされています。
ミミズクは洋の東西を問わず、知性の象徴とされているようです。
鬼石というのがありました。
源頼光が大江山の鬼を退治したときに、その首を持ち帰り、案内社八幡宮そばに埋めて標識としたと説明されています。案内社八幡宮は境内にあります。
案内社八幡宮は案内社と八幡宮を一つにしたものだそうです。
案内社のご祭神は猿田彦神(さるたひこのかみ)。八幡宮のご祭神は誉田別命(ほんだわけのみこと)、応神天皇です。
長壁神社のご祭神は姫路刑部大神(ひめじおさかべのおおかみ)と富姫神(とみひめのかみ)。
刑部の神は姫路城に住み着いている妖怪?で、富姫は刑部の娘です。もともと、刑部大明神は姫山山上にありましたが、秀吉が姫路城を築城したときに町外れに移したそうです。
縁結び絵馬掛けがありました。
鳥居から楼門までの参道は「ひめじ縁結び通り」といい、11枚の縁結びプレートが2列並んでいます。1枚の縁結びプレートには51個のハートマークがあります。
11枚のプレートの51個のハートから1151(いい恋)、夫婦二人で踏んで1122(いい夫婦)という語呂合わせとか。恋をかなえたい女子はプレートを踏んで縁結びの神様である兵主大神におまいりしたらいいそうです。
総社には結婚式場もあります。
当然、神前式です。
射楯兵主神社のご祭神・兵主大神は縁結びの神様でもあられます。
結婚式を上げる二人には、神様から愛のパワーが送られるかもしれません。
姫路市出身の詩人、大塚徹の歌碑がありました。タイトルは「北海の蟹」。
陽に興じては
花粉のごとく風に流れ
鳥のごとく巣に帰る
あわれ友よ
今日もまた旅をゆくか
近くに姫路市出身の俳人、五十嵐播水の句碑があります。五十嵐播水は医者でもありました。
医者をしながら句を作りました。
迸る
雨水花の
庇より
永正3年(1506)置塩城主・赤松義村が大願主となって制作された鐘です。
赤松家から射楯兵主神社が崇拝されていたものと考えられます。
天気も良く、気持ちよく晴れていました。姫路城がきれいに見えました。