寿永2年(1183)10月、水島で源義仲と平家の戦いが行われました。
このとき平家は、義仲の京都に攻め込まれたため都落ちし、屋島を拠点にしていました。
平家追討のため屋島に攻め込もうとした義仲軍を平家が破った戦いです。
戦が行われたのは現在の倉敷市水島ではなく、玉島地域。
今は陸地になっていますが、当時は島だった乙島に源氏、柏島に平家が陣を構えました。
源氏軍は約5千人の兵と100艘余の船。平家軍は約7千人の兵と200艘余の船で戦ったとされています。
この戦いでは平家が源氏を破ったのですが、平家が勝った要因は次のことがいわれています。
- 板を渡して軍船同士をつなぎ合わせて船を安定させ、陣を構築した。
- 正午ごろから金環日食が起き、平家軍はそれを予測していたが、源氏軍は日食に動揺した。
上記以外に、義仲軍は舟戦に慣れてなかった、人数が少なかったのも敗戦の原因だと思いました。
水玉ブリッジライン玉島大橋(通称 源平大橋)の柏島側に源平合戦水島古戦場の碑があります。
この碑は水島合戦800周年を記念して建立されたもので、黒い丸は日食があったことを表しているそうです。
玉島大橋を乙島に渡った城ノ山の山頂に瑠璃山常照院があり、源氏本陣の碑があります。
瑠璃山常照院は承和年間(834〜848)慈覚大師の開祖と伝えられています。
ここに源氏の本陣があったとされており、源平水島合戦城趾の碑が建立されています。
(常照院境内、八幡神社の裏手にあります)
この戦で負けた義仲軍は京に敗走。水島合戦の3ヶ月後、源範頼・源義経との「宇治川の戦い」で敗れ、近江国粟津で討ち死にします。
平家はこの戦いに勝ったことで勢力を回復。神戸・福原に拠点を構え、一ノ谷の戦いに突入していきます。
水島の戦いは、戦った源義仲、平家両者にとって大きなターニングポイントになりました。