敦賀に続いて、青春18切符を使って関ヶ原まで行きました。
新快速で米原まで行き、そこから大垣行きに乗り換えます。
姫路〜関ヶ原は約3時間かかりました。
関ケ原駅に着いて、自転車をレンタルしました。歩くのに比べるとずっと早く移動でき、どこでも駐車できるのも便利です。
徳川家康 最初の陣地
徳川家康が最初に陣地とした桃配山。
戦闘が行われた場所からは約 3 kmとかなり離れています。
桃配山は、はるか昔の壬申の乱 (672年) の勝者、大海人皇子が陣を敷いたと伝えられています。家康はそれにあやかって、ここに陣を敷いたと言われています。
しかし、それにしても離れすぎのような気がします。
ここから、激戦が行われた決戦地まで、多くの武将の陣地が点在しています。
本多忠勝陣跡
徳川四天王の一人、本多忠勝の陣地です。説明板には次のように書かれています。
東軍の軍監として約5百の兵を率いてこの辺り に布陣。伊勢街道を抑え、南宮山 (垂井町) 方面の西軍諸隊を牽制するとともに、福島正則ら豊臣恩顧の武将の諸隊と、桃配山に布陣する徳川家康本隊の間にあって戦況を睨んでいた。
説明板より
南宮山の西軍諸隊は動かないと見切ると、徳川本隊の前進と 合わせ自らも戦闘に参加する。
東軍にいた豊臣恩顧の武将が裏切る可能性を疑い、それらの武将と家康の間にいたようです。
そうすると、家康が戦場から離れた桃配山に陣を敷いたのも納得できます。
戦に勝つには細心の注意をし、あらゆる可能性を考えているのでしょう。すごいです。
福島正則陣跡
豊臣恩顧の武将の一人、福島正則の陣跡です。
石田三成と犬猿の仲だった福島正則は東軍に味方し、6千の兵を率いていました。
陣跡にある月見の宮大杉は高さ 25 m、樹齢 800 年の大杉。関ケ原合戦屏風にも描かれているそうです。
大谷吉継陣跡
西軍の武将、大谷吉継の陣跡は若宮八幡宮から少し登ったところにあります。
吉継は石田三成に挙兵をいさめますが聞き入れてもらえませんでした。しかし盟友の三成のため、西軍として戦いに加わります。
最期は東軍に寝返った味方の軍勢に攻め込まれ自刃します。
小早川秀秋の裏切りを予想していたため、小早川の陣地、松尾山が見える所に陣を定めたと言われています。
盟友三成との友情で、負けを覚悟しながらも奮戦した吉継の顕彰碑が建っています。
陣跡から10分程度の所に大谷吉継の墓があります。ここには吉継と家来の湯浅五助の墓があります。説明板には次のように書かれていました。
最期を悟った吉継は 「病み崩れた醜い顔を敵に晒すな」と言い残し、家臣の湯浅五助の介錯を受け藤川台で自刃した。 戦場を離れ吉継の首を隠した五助は、直後に出くわした藤堂高虎の甥・高刑へ、「主君の首の在処を秘して欲しい」と頼み、自らの首を差し出す。高刑はその約束を守り、徳川 家康の詰問にも頑として首の在処を言わなかったという。
説明板より
宇喜多秀家陣跡
宇喜多秀家は西軍最多の1万7千の兵を率いていました。
戦後、宇喜多秀家は八丈島へ流されます。
関ヶ原合戦当時は28歳。八丈島で84歳まで生きたそうです。
若い頃に体験した戦いのことをどう思ったのでしょうか。
小西行長陣跡
小西行長の陣跡は開戦地のすぐそばにあります。
当日は6千の兵を率いていました。
行長はキリシタンだったので自刃できなかったと言われ、最期は三成らとともに京都の六条河原で処刑されました。
島津義弘陣跡
島津義弘の陣跡も開戦地の近くにあります。
ここに陣を敷きながら、戦いには参加せず、戦いが終わったあと、東軍の正面を突破し、薩摩まで逃げ帰ったことで有名です。
「関ヶ原戦跡踏破隊」の名碑というのがありました。
鹿児島県日置市の青少年で構成された関ヶ原戦跡踏破隊が、昭和35年から毎年、夏休みに関ヶ原から大阪までの島津隊が逃げ帰った道を踏破しているそうです。
碑には参加者の氏名、年齢が刻まれています。
島津義弘の陣跡は開戦地にも、決戦地にも近い所にあります。
その部隊が戦いに参加しないとは。石田三成は悔しかったでしょうね。
開戦地
慶長5年 (1600) 9月15日 午前8時頃、東軍の松平忠吉と井伊直政が宇喜多隊に発砲。戦いが始まりました。
決戦地
決戦地は石田三成の陣跡の正面にあります。
小早川秀秋の裏切りなどで、西軍が総崩れしたあとに残った石田隊、島津隊に向かって東軍が攻め込み、激戦が繰り広げられたところとされています。
石田三成陣跡
笹尾山にある石田三成の陣跡です。
三成は6千の兵を率いていました。
島左近らの活躍で黒田長政、細川忠興らの東軍の攻撃を跳ね返していました。
しかし、島左近は黒田隊の射撃により戦線から脱落。
小早川秀秋らの裏切りによって西軍が総崩れするなか、戦い抜きます。
三成の陣地から決戦地がよく見えます。
戦いの推移がはっきりわかったでしょう。
最期まで奮戦するも午後2時頃、石田隊も壊滅。
三成は戦線を離脱します。
徳川家康 最期の陣地
徳川家康の関ヶ原最期の陣地です。合戦開始時の桃配山から前進してきています。
戦いのあと、家康はこの場で床几に腰掛け、味方が討ち取ってきた敵将の首を自ら首実検しました。
東首塚・西首塚
家康から戦死者の処理を命じられた関ヶ原領主・竹中重門は遺体を埋葬し、東首塚、西首塚を作りました。
文化14年 (1817) に建てられた首級墳碑には次のことが書かれているそうです。
徳川家康が東国で勢力を拡大したため、石田三成は豊臣政権が不利と見て兵を挙げた。慶長5 (1600) 年9月、関ヶ原において両勢力が激突したが、三成側が大敗。家康は東西2箇所に首塚を造り、全ての首や遺骸を葬らせた。豊臣のために犠牲になった者を納め葬ることは仁義に厚く、 家康の教えが泰平の世をもたらしたといえる。将来この首塚が丘や谷に変わり果てることのないよう願うものである。
説明看板より
明治時代に行われた鉄道工事の際にはおびただしい数の白骨や刀が出土したそうです。
国内最大の戦いだった関ヶ原の戦い。どれくらいの死者がでたのでしょうか。
決戦地の近くに一面のひまわり畑がありました。400年前の激戦のあとは全くありません。
でも、地面の下には、今もたくさんの人が眠っているかもしれません。