柏原の領主は幕府の天領時代をはさんで、2系統の織田家が務めました。
最初は信長の弟・織田信包(のぶかね)の系統です。
慶長3年 (1598)の 初代・信包の立藩から信則、信勝と三代続いたあと、嗣子が途絶え改易となります。
慶安3年 (1650)〜元禄8年 (1695) は幕府の天領となります。この頃、柏原出身の女流俳人・田ステ女の父や夫が代官を務めました。
元禄8年 (1695) に信長の次男・織田信雄の系統である織田信休が大和宇陀藩から柏原へ入府。ここから後期織田家柏原藩が始まり、10代の藩主が続き、明治維新を迎えました。
丹波市柏原の陣屋は柏原を治めた織田家・織田信休公が正徳4年 (1714) に創建したものです。
しかし、文政元年 (1818) の火災で焼失。現在残っている屋敷は文政3年 (1820) に再建されたもので、唯一、長屋門が創建当時の建物でした。
長屋門から御殿玄関まで続く構えは全国でも珍しいそうです。
玄関は重厚感があります。御殿内も大きな部屋が続き、豪華な感じがしました。
お殿様はこんな立派な御殿で、どういう暮らしをしていたのかと思います。
この御殿に入るには向かいにある柏原歴史民俗資料館でチケットを買います。
資料館には歴代藩主のエピソードが展示されていました。
藩主を務めた方々には、いろいろな方がおられました。
まず、初代の織田信包です。
信包が相原藩主になったのは慶長3年 (1598)。関ヶ原の戦い以前でした。そして、信包は西軍側で戦います。さらに大阪城で豊臣秀頼に近侍しており、大阪冬の陣の直前に亡くなっています。
豊臣から徳川へ時代が移っていく中で、よくぞ生き残ったと思います。
後期織田家初代の織田信休の父・織田信武が家臣2名を殺し、自殺するという宇陀騒動を起こしています。この騒動のため、信休は柏原に転封となります。宇陀2万8千5千石から、2万石に減封になり、財政が苦しくなったようです。
織田信憑 (4代)、信守 (5代) は「秘命騒動」、「保野騒動」というお家騒動を起こします。また浪費と、それを補うための重税で一揆が起こったそうです。あまりのひどさに、信守は家臣によってわずか2年で藩主の座を追われました。
織田信敬 (8代) は中興の名君として讃えられています。財政再建に取り組むとともに藩校「又新館」を設立しました。
最後の藩主・織田信親 (10代) は明治維新を迎えます。勤皇の志が強く、倒幕派として薩長と行動を共にしたそうです。
信長が、これら藩主のことを知ったらどう思ったのでしょう。感想をきいてみたいです。