明治10年(1877)、アメリカから来たモース博士によって大森貝塚は発見されました。
明治10年6月、アメリカから日本にやってきたモース博士は、横浜から東京に向かう列車に乗ります。そのとき、大森駅の近くの台地の崖下に散らばった白いものを見て、貝塚であることを確信。
9月16日、発掘を開始。貝殻、土器、動物の骨、人骨などが出土しました。
土器に縄目のような模様があることから「縄のマークがある土器」とモース博士は呼んだのですが、これが縄文式土器の名になりました。
大森貝墟の碑
NTTデータの敷地内、線路沿いに本物の大森貝墟の碑が建っています。
歩道にも古代の生物が描かれています。NTTデータの敷地内ということで見学は9時から夕方5時までです。
大森貝墟の碑が建てられたのは昭和5年(1930)。
大正14年(1925)にモース博士の訃報が伝えられたのがきっかけで建立されました。
「大森貝墟」碑の文字はモース博士と一緒に貝塚の発掘を行った佐々木忠次郎氏によるものです。
約50年前の若かりし頃、日本で始めて考古学の発掘を経験したというのは誇らしく、モース先生への尊敬、敬愛の気持ちがあったと思います。
大森貝塚遺跡庭園
大森貝墟の碑から東へ行ったところに大森貝塚遺跡庭園があります。
モース博士の生誕の地であるアメリカ・ポートランド市と品川区が姉妹都市となったのを記念して昭和60年(1985)に開園されました。
貝塚跡、貝塚展示ブース、縄文の広場、地層の回廊などいろいろなものがあって、楽しめます。
地層の回廊には白い貝殻らしきものが埋め込まれ、地層の状態がわかるようになっています。
貝塚跡も再現されています。
貝塚展示ブースでは貝塚がリアルに再現されていました。
貝塚は縄文時代のタイムカプセル。ここから縄文人の暮らしがわかります。
ここが貝塚だったということは、縄文時代はこのあたりが海岸線だったようです。
暮らしやすい場所だったのでしょう。
- モース博士の略歴
- 1838年(天保8年)アメリカ・メイン州に生まれる。大塩平八郎の乱。
- 1859年(安政5年)ハーバード大学で助手を務める。ダーウインの「種の起源」が刊行される。安政の大獄が始まる。
- 1877年(明治10年)モース博士来日。東京大学教授に就任。大森貝塚を発見、発掘調査する。進化論を講演。
- 1879年(明治12年)調査報告書「Shell Mounds of Omori」が刊行される。同年9月に東京大学教授を満期辞任し、アメリカに帰国。
- 1882年(明治15年)再来日し、陶器を収集。
- 1925年(大正14年)死去。
進化論の「種の起源」が世に出たころ、日本では安政の大獄が起こっていたとは。
モース博士が日本にいた期間は短かいものでしたが、日本の考古学を誕生させた人でした。