桑名城の初代藩主は徳川四天王の一人・本多忠勝です。
大きな本多忠勝像があります。
強そうで、とてもかっこいい。でも、恐ろしい感じもします。
桑名は、尾張(名古屋)の熱田まで船で渡る七里の渡しがある東海道の要衝でした。
そういう重要な場所だからこそ、徳川四天王である本多忠勝が城主に選ばれたのでしょう。
桑名城絵図を見ると、水を活かした城作りがなされていたようです。
本多家のあとは奥平松平家、久松松平家が桑名藩主となり幕末まで続きます。
城内にあった鎮国守国神社という神社は当時の藩主・松平(久松)定永によって建てられた神社で、藩祖・松平定綱(鎮国大明神)と実父・松平定信(守国大明神)がお祀りされています。
天守閣は元禄14年(1701)の大火で消失してしまい、城の建物は残っていません。
天守台跡には戊辰戦役の犠牲者を追悼する「戊辰殉難招魂碑」が建てられています。
幕末、桑名藩主は松平定敬でした。定敬の兄は会津藩主・松平容保。
桑名は会津と同じく、幕府を支える藩でした。しかし、鳥羽・伏見の戦いで敗北。定敬は容保、徳川慶喜とともに江戸に向かいます。
藩主がいなくなった桑名に残された藩士たちは新政府に帰順します。
しかし、定敬は戦いを止めず、函館でも戦おうとしますが、桑名藩家老・酒井孫八郎の説得により新政府に降伏。桑名藩は御家断絶を免れました。
「戊辰殉難招魂碑」には「忠哉義哉桑名士民守節取義各殉其難郷党追慕建碑招魂(忠ナルカナ義ナルカナ。桑名の士民。節ヲ守リ義を取ル其ノ難ニ各ガ殉ズ。故郷ヲ忍ビ碑ヲ建テ魂ヲ招ク)」「嗚呼忠節永照千春(アア忠節。永照千春)明治二十年十二月 正四位松平定敬撰并書」という文字が刻まれており、松平定敬による文です。
明治維新を生き延びた定敬。どういう思いでいたのでしょうか。