関守稲荷神社は須磨の関跡の候補地の一つです。
大宝元年(701)に発布された大宝律令には、天下の三関に次いで重要な関所として須磨の関(「摂津の関」と呼ばれた)が書かれているそうです。
須磨は海と山に挟まれた地形で、狭くなっているので、ここに関所を設けると古代山陽道を抑えることができたのでしょう。
天下の三関
天武元年(672)または2年(673)に制定されたと考えられている。
①鈴鹿の関:現在の亀山市に設けられ、東海道(当時は四日市〜亀山〜草津・奈良のルート)を抑えた。
②不破の関:現在の関ヶ原に設けられ、東山道(新幹線のルート)を抑えた。
③愛発(あらち)の関:北陸道を抑える関所で、敦賀から近江塩津へ行く途中の疋田に設けられていた推定されている。平安中期以降、愛発関ではなく逢坂の関(大津)が三関となった。
境内に「長田宮」と刻まれた碑があります。
この碑は明治の初めに、現光寺の裏手から彫り出された石柱で、側面に「川東左右関屋跡」と刻まれています。
現光寺(源氏寺)は関守稲荷神社から東へ200mほどのところにあり、須磨の関所は現在の関守稲荷神社ではなく、現光寺付近にあったのではないかと考えられています。
※他にも多井畑などの説があります。
関守稲荷神社のご祭神は倉稲魂命(うかのみたまのみこと)。穀物の神で女神です。
倉稲魂命が須磨の関の守護神でした。
境内には須磨の関を題材にした源兼昌、藤原俊成、藤原定家の歌碑がありました。
源兼昌は平安時代後期の貴族・歌人。
歌は「淡路島 かよふちどりの鳴く声に
いくよねざめぬ 須磨のせきもり」
百人一首にも入っている歌です。
この歌はなんとなく記憶があります。
藤原俊成の歌は
「聞き渡る 関の中にも 須磨の関
名をとどめける 波の音かな」
藤原俊成は平安時代後期から鎌倉時代初期の公家・歌人で、『千載和歌集』の編者でした。
藤原定家は藤原俊成の子です。
新古今和歌集、勅撰和歌集を編纂し、小倉百人一首を作ったというすごい歌人です。
「桜花 たが世の若木 ふり果てて
須磨の関屋の 跡うづむらん」
昔は若木だった桜も散ってしまい、須磨の関の跡を埋めているという意味のようです。
三人以外にも、須磨の関を題材に詠まれた多くの歌が掲げられていました。
在原行平が須磨に流されたことを発端に、源氏物語の光源氏が須磨に来た物語が生まれ、須磨の関の情景が創造され、多くの歌が詠まれる。
平安時代の知性、雅さが感じられます。