松風村雨堂

平安時代の公卿・歌人である在原行平が須磨に暮らしたときに、多井畑の村長の美人姉妹、姉「もしほ」、妹「こふじ」との出会いと別れがあったという物語の舞台です。

 平安時代前期、在原行平が須磨の地でさみしく暮らしていた時、潮汲みに通っていた多井畑の村長の娘である姉妹に出会った。その時、一陣の風が吹き抜け、娘たちの頬を通り過ぎ、にわか雨が黒髪にふりかかった。そこで行平は娘たちに、「松風」「村雨」の名を与え、仕えさせた。
 やがて許されて都へ帰ることになり、小倉百人一首で有名な
  立ちわかれ いなばの山の峯におふる
    松としきかば今かへりこむ
の歌を添え、姉妹への形見として、かたわらの松の木に烏帽子、狩衣を掛け遺し、都へ旅立った。

松風村雨堂の説明板より

松風村雨堂から多井畑までは約3kmの距離があり、潮汲みに通うのは大変だったと思います。
そんな二人に、都から来た在原行平は格好良かったでしょうね。
在原行平の弟は在原業平。業平は伊勢物語の主人公で美男の代名詞とされています。
兄・行平もハンサムだったのではないでしょうか。

お堂と磯馴松

行平が旅立ったあと、残された二人は行平の住居跡に庵を結び、行平の無事を祈ります。観音堂は姉妹が結んだ庵の跡と伝えられています。
二人は行平が残した歌を信じて、行平が帰ってくるのを待っていたのかもしれません。

たくさんの供養塔が供えられている

この伝説を元に観阿弥、世阿弥によって謡曲・松風が作られます。
旅の僧が見た夢に松風、村雨姉妹が現れ、行平を恋慕して舞い踊る物語。残された二人の思い、悲しみが表されています。
須磨は文学にまつわる遺産が多いところです。
説明板には「伝説にちなんで稲葉町、衣掛町、松風町、村雨町、行平町の町名がつけられた」とありますが、本当にそうでした。

松風町、村雨町などがある

在原行平の話は単なる伝説かと思っていたのですが、「松風」「村雨」の墓が多井畑厄除八幡宮の近くにあるということで、行ってみました。
小さな供養塔が2基建っています。

「松風」「村雨」の墓
左:姉もしほ「松風」、右:妹こふじ「村雨」

立派な英雄や武将でもない二人の墓が伝えられているとは。
地域の人達の優しさを感じました。