徳川家康のお母さん・於大の方さまをお祀りする傳通院。
応永22年(1415)、浄土宗第七祖了誉によって開山されましたた寺です。当時は無量山寿経寺という名でした。
於大の方は享禄元年(1528)、三河刈谷城主・水野忠政の娘として生まれました。
13歳で岡崎城主・松平広忠と結婚。14歳で竹千代(家康)を生みました。
水野忠政の死後、刈谷城を継いだ水野信元(於大の兄)は織田信秀(信長の父)と同盟を結びます。そのため、今川方であった松平広忠は於大を離縁。於大は刈谷城に帰りました。
その後、於大は尾張阿久比城主・久松俊勝と再婚(天文16年/1547年)。三男三女を生みます。
桶狭間の戦い(永禄3年/1560年)の後、母・於大の方と家康は再会。
天正3年(1576)、裏切りを疑われた於大の兄・水野信元は信長の命を受けた家康に殺されます。
天正15年(1587)、久松俊勝が死去。於大は尼となり、「傳通院」の号を授かります。
家康が天下人になったあと、慶長7年(1602)に於大の方は上洛し、秀吉の未亡人高台院(ねね)との面会や後陽成天皇に拝謁を行います。
そして、その直後、病にかかり伏見城で亡くなられました。
法名は「傳通院殿蓉誉光岳智香大禅定尼」。
於大の方の菩提寺となった寿経寺は「傳通院」と呼ばれるようになりました。
於大の方の人生は波乱万丈でした。
息子が天下人になったからこそ、こうなったのだと思いますが、戦国時代の女性はすごい人生を送っていたようです。