京都一乗寺にある金福寺に芭蕉庵とか与謝蕪村の墓があるというのでおまいりさせていただきました。
金福寺は貞観6年(864)に慈覚大師円仁によって創建された寺です。
江戸元禄時代に鉄舟和尚が再興。松尾芭蕉が鉄舟和尚を訪ねて親交を深めました。
鉄舟和尚と松尾芭蕉が交流した庵が芭蕉庵。鉄舟和尚の死後、荒廃した芭蕉庵を与謝蕪村が再興します。
そして、金福寺には村山たか女という尼僧がいました。
村山たか女
村山たか女は幕末、井伊直弼の女スパイとして活躍した女性です。
たか女は京都で芸子となり、息子・帯刀を生みます。
その後、たか女は彦根に帰り、彦根城「埋木舎」でくすぶっていた井伊直弼た知り合い、深い仲になりました。
兄の死去によって井伊直弼は彦根藩主となり、江戸へ出府。大老となります。
安政5年(1858)から始まった安政の大獄では、たか女は京都で集めた情報を江戸に送り大きな役割を果たしました。
しかし、桜田門外の変(安政7年/1860年)で井伊直弼が暗殺され、時代が変化します。
文久2年(1862)、たか女は尊王攘夷派の武士に捕らえられ、三条鴨川で生き晒しにされました。
金福寺にはたか女の晒し物の図があります。
木の柱にくくりつけられた姿です。
たか女は三日三晩晒されたのちに助けられました。しかし、息子の帯刀は攘夷派の志士たちによって斬首され首をさらされます。
その後、たか女は金福寺で出家。名を妙寿と改め、尼僧として過ごしました。
与謝蕪村
与謝蕪村は享保元年(1716)に大阪で生まれた俳人、画家で、どちらも超一流の芸術家です。
若いころに江戸に出て、宋阿という俳諧師の弟子になります。
芭蕉が旅した奥の細道を訪ねる東国行脚、丹後宮津での生活の後、京都に住みました。
蕪村の句は「菜の花や 月は東に 日は西に」や「春の海 終日のたり のたりかな」を聞いたことがあるかな、という程度ですが、絵の方はかわいらしい絵を描くという印象がありました。
蕪村は写経社という俳句の会を結成し、金福寺で句会を開きました。
庵落成の日に詠んだ句です。
耳目拝腸 ここに玉巻く 芭蕉庵
蕪村が記した俳文「洛東芭蕉庵再興記」は名文ととして有名です。師と仰ぐ芭蕉ゆかりの庵を再興できた気持ちがこもっているのでしょう。
庵の横に芭蕉を讃える石碑があります。
蕪村は碑の建立時に
我も死して 碑にほとりせむ 枯尾花
という句を詠みました。
天明3年(1783)、蕪村は亡くなります。
望み通り、金福寺の芭蕉庵の近くに墓が建立されました。
金福寺の村山たか女、与謝蕪村のエピソードはおもしろく、もっと深いことを知りたいという気になりました。