元久2年(1205)、鎌倉に向かう畠山重忠公が北条軍に討たれるという事件が起こりました。
北条軍は北条義時を大将に数万の大軍勢。それに対する重忠公の軍勢はわずか134騎。
数時間にわたる激闘を繰り広げたのち、重忠公以下134名全員討死を遂げました。
相鉄鶴ヶ峰駅から歩くこと約10分。重隆公の首塚があります。
近くに「首洗い井戸」と「鎧の渡し」の標柱が立っています。
重隆公の首を洗い清めたといわれる井戸があったそうです。
「鎧の渡し」は武士が帷子川を渡る際に鎧を頭の上にのせて渡ったことからついた名前のようです。現在では川の流れが全く違っているため、当時の状況を想像することもむつかしいです。
もう少し進むと「畠山重忠公終焉の地」の標柱があります。ここが合戦の現場だったようです。
ここには重忠公の碑が建てられています。「重忠公没後750年の昭和30年(1955)に鶴ヶ峰と重忠生誕の地・埼玉県深谷市の有志により建てられた」との説明がありました。
「さかさ矢竹」というのが植わっていました。
重忠公が戦死する前、「わが心が正しかればこの矢にて枝葉を生じ繫茂せよ」と2本の矢を地面に突きさしました。すると、その矢が自然に根付き、毎年2本ずつ増えて「さかさ矢竹」と呼ばれるようになった。
さかさ矢竹は昭和の時代に消滅してしまったそうで、ここにあるのは重忠公没後800年に植えられたものでした。
次は山の方へ登り薬王寺の六ツ塚におまいりしました。
重忠公主従134名の遺骸は6か所に埋められたことから、塚は六ツ塚と呼ばれています。
本堂の脇にこん盛り土が盛り上がったものが数個あります。これが六ツ塚なんだろうと思いました。重忠公の塚があって、それが大きいというようなものではありませんでした。
それにしても134名もの亡骸を埋めたのだから、大きな穴を掘ったのだと思います。
畠山重忠公を討った北条氏は畠山氏に代わって武蔵国を治めます。また、この事件のあと北条時政は追放され、北条義時が実権を握ります。
畠山重忠の乱は時代の大きなターニングポイントでした。