加西市北条町の城山にある小谷城を訪問しました。
ふもとには「小谷石仏」や「乳の井戸」という史跡が残っています。
乳の井戸
ちょっと気になる名前です。
説明板によると「石垣の間から乳のような白い水が湧き出し、しばらくすると澄んだ水になる」とありました。
ネットで調べると少し違う話が載っています。「夜中の12時になれば真っ白い乳のようになり、朝になれば澄んだ水となる」
いずれにしても、水の色が変化するようです。
見た感じでは、水は白くはありませんでした。夜中に来ないとだめなのかもしれません。
この水の不思議は色だけではなく、この水でご飯を炊くと母乳の出が良くなるというのがあります。母乳の出をよくする何かが混ざっているのかもしれません。
小谷石仏
造られたのは康永4年(1345)。南北朝時代でした。将軍は足利尊氏。北朝は光明天皇、南朝は後村上天皇です。
高さ1.7メートル。幅1.1メートルと大きなものです。説明板には石棺の蓋に仏様(阿弥陀如来と6体の菩薩)が彫られています。小屋の内側の写真では2体の菩薩はわかりましたが、残りの4体はわかりませんでした。
小谷城
「こだにじょう」と読みます。
小谷城は標高218mの山頂に建てられた山城です。
小谷城の歴史は次のようなものです。
応永年間(1394~1427)に赤松満祐の義弟・上原民部大輔祐政が築城したとされる。
嘉吉元年(1441)、将軍・足利義政を赤松満祐が殺害。赤松氏と幕府方が戦う嘉吉の乱が起こる。
このとき城主は赤松満祐の弟・赤松直操。直操は幕府軍(山名勢)との真弓峠の合戦に敗れ自害する。このとき小谷城も落城したと考えられている。
嘉吉の乱の結果、赤松氏の領土であった播磨・備前・美作は山名氏のものになるが、赤松政則が赤松家を再興し、領地も山名氏から取り戻す。
小谷城は赤松祐尚(すけひさ)によって再建される。赤松祐尚は祐尚山陽松禅寺を建立するなど、善政をしいて領民にしたわれたという。
しかし、祐尚は播磨に侵攻してきた尼子氏との戦いに敗れ討死。追善墓が建てられている。また、近くには戦いで亡くなった家臣の墓が並んでいる。
城の遺構には天正の頃の特徴が残っているため、小谷城は秀吉方によって修復され、播磨平定・三木城攻めの拠点になったと考えられている。
播磨を舞台に激しい戦いが繰り広げられていました。
侍も庶民も大変な時代ですね。こんな時代には神仏のご加護を求めるのは自然なのでしょう。
小谷城へは小谷区公民館の前の道から登っていきました。5分ほどで陽松禅寺に着きます。山門前には立派な仁王様がおられました。
陽松寺を過ぎると家臣たちの墓、赤松祐尚の墓があります。
ずらっと並んだ小さい墓は健気に戦い、命をなくした家臣たちを思い起こさせ、哀れを感じます。赤松祐尚の墓は大きいですが、一人ポツンとあり、寂しい感じがしました。
そこを過ぎると城山山頂への登山です。
登山道は整備されており、迷うことなく歩きやすくなっていました。
20分ほどで頂上の本丸跡に到着です。
頂上付近は平らになっており小谷城の本丸です。
地元の北条小学校の児童が描いた絵がありました。
北条小学校では1年生から6年生まで、みんなで城山を縦走するようです。友達と一緒に登ったら楽しいでしょうね。
校歌の2番に「心はつねにならの木の 木の実のごとくけん実に 強き力は城山の 縦走にこそためすなれ」とありました。