藤沢・遊行寺

藤沢にある遊行寺は時宗の総本山の寺です。正式名称は藤沢山無量光院清浄光寺といいます。
正中2年(1325)、時宗四代目の遊行上人、呑海上人が開山しました。時宗の宗祖・一遍上人が神戸の真光寺で亡くなってから約35年後のことです。
時宗は一遍上人から、真教上人、智得上人、呑海上人と続きます。
現在は第75代・他阿一浄上人です。

いろは坂

総門をくぐりいろは坂を上がります。
いろは坂の石段は48段。48文字の「いろはにほへと・・・」からいろは坂と呼ばれています。
48という数字は、阿弥陀如来の四十八願に由来しているそうです。阿弥陀如来は48の願いを述べられ、それらをすべて達成して仏になられたといいます。
48段の石段を上っていくと、極楽浄土へ通じるというわけです。

本堂

いろは坂を上りきると本堂です。旧本堂は関東大震災で倒壊し、現在の本堂は昭和12年に建てられました。

一遍上人像

一遍上人の像があります。一遍上人は念仏と遊行に一生を捧げ、書いた書物や創建した寺などはありません。自分の後継者を作ろうとか、教団を作ろうなどということは全く考えていなかったようです。
遊行寺のような立派な寺ができているのを見たら、びっくりするかもしれません。

中雀門

中雀門は安政6年(1859)に建立されたもので、遊行寺で最も古い建物です。

南部茂時という鎌倉武将の墓があります。
元弘3年(1333)の鎌倉幕府滅亡のときに北条方として戦った武将だそうです。
墓の説明板によると、南部茂時は敵軍を突破して遊行寺まで来てから自決したと書かれていましたが、ホームページでは家臣が鎌倉で死亡した主人の遺体を遊行寺まで運んできて葬ったとありました。

伝南部茂時の墓

いずれにせよ、鎌倉と遊行寺の近さ、念仏信仰の厚さがうかがえる話です。
でも、1325年に遊行寺が創建され、幕府は1333年に滅亡しています。その間たった8年だったのですね。

本堂の右奥に長生院があり、小栗判官と照手姫の墓が残されています。

小栗判官の墓
照手姫の墓

説明看板には次のような話が書かれていました。

  • 応永30年(1423)、常陸国小栗を治めていた小栗満重らが従わないということで鎌倉公方・足利持氏に攻められた。
  • 多勢に無勢で城は落城。
    小栗満重は子の助重や家臣と共に落ちのびる途中、横山大膳の館で歓待を受けたが、酒に毒を盛ら、家臣十名は死んで遊行寺に葬られた。
  • 助重は照手姫の助けによってこの危機を逃れ、熊野本宮の温泉に浴して元通りの体になった。
  • その後、助重は幕府の将として嘉吉元年(1441)の結城合戦で功をあげ、小栗領を再び治めることになった。
  • この助重が小栗判官と言われる武将である。

小栗判官の伝説にはいろいろなバリエーションがあって、満重が主人公のものだったり、照手姫が遊女だったりするものもあるようです。また、小栗満重が足利持氏に攻められたのは応永23年(1416)に起こった上杉禅秀の乱のときではないかと思います。
いずれにしても、小栗の話は当時の人に様々なイマジネーションをかき立てる素材だったようです。江戸時代に作られた「小栗判官絵巻」は全長324メートルもある超大作で、小栗判官と照手姫の恋、小栗判官の死と復活が書かれた奇想天外なストーリーが繰り広げられます。
昔の人の想像力はすごいです。

敵味方供養塔

敵味方供養塔は、小栗満重も戦った上杉禅秀の乱で戦死した敵、味方を供養するために応永25年(1418)に建てられた石塔です。この石塔は上杉禅秀を滅ぼした足利持氏が発願主となって造立されたと考えられています。

本堂の前に大きなイチョウの木があります。
樹齢は500〜700年だそうです。もし700年だとしたら、遊行寺が創建したときに植えられたのかもしれません。
遊行寺の長い歴史を見続けてきた木ですね。