播磨の山城・中道子山城

城山

中道子山城は、加古川市志方町の城山(標高271メートル)にある山城です。
赤松氏範(氏則)が築城したという説と、孝橋繁広(赤松満直)が築いたという二つの説が伝えられています。

赤松氏範は赤松円心の四男です。
円心とその子供たち全員が北朝の味方をするなか、氏範だけが南朝方として戦い、永徳3年(1383)、播磨清水寺で自刃した武将です。
氏範は近くにある天神山城も築いたとされ、志方地方に拠点を持っていました。

江戸時代の地誌「播磨鑑」などには、孝橋繁広(赤松満直)が築城したと書かれています。
赤松氏範の時代、山には「中道寺」という寺院があって、それを城として利用しただけで、城としての築城は孝橋繁広が行ったということです。

城主は繁広の後、繁景、政頼、秀光、秀時と代わりました。
秀光の時代はまさに戦国時代。
浦上氏と戦い、播磨に侵入してきた尼子氏と戦います(天文7年/1538)。さらに三好長慶と細川晴元の戦いにも巻き込まれ、摂津三宅城で戦死しました(天文18年/1549)。
秀光の子・秀時は佐用郡上月の浅瀬山城に移り、中道子城には城代をおいたとされています。

山頂へは、登山道の入り口から舗装された道が続いています。途中からは、登りの階段になりますが、しっかり整備されていました。

登山道入り口
舗装された登山道
登山道の横は石垣?

途中には櫓台跡や城門跡があり、大きな城だったようです。

櫓台跡
城門跡

加古川市教育委員会による発掘調査の結果、次のことがわかっています。

  • 大永年間(1521〜1527)までに築城された。すでに石垣をともなう城郭だった。
  • 享禄年間(1528〜1531)に火災があり、それまでの城は焼失した。
    この火災は秀光と浦上氏の戦いの中で起こった可能性がある。
  • その後、規模を大きくして再築城がなされた。
  • 出土品には天正期のものがほとんどなかったため、天正期に使用された可能性は低い。
    秀吉による城攻めもなかったかもしれない。

本丸のすぐ下の方には米倉跡、井戸がありました。こんな山頂に井戸があるのはすごいと思います。今も井戸の水は枯れないそうです。
籠城するために米倉や、井戸が完備されていたのですね。

広い本丸

山頂の本丸です。
思ったより広いです。だからこそ城になったのだとは思いますが。
「赤松城址」の碑が建っています。
赤松氏の最期を考えると、ちょっと物悲しい感じもしました。