天王寺・一心寺

天王寺にある一心寺におまいりさせていただきました。
一心寺のホームページには「お骨佛の寺・納骨とおせがきの寺」とあります。
「お骨佛」、「おせがき」ともに一心寺の長い歴史から生まれたものでした。

山門がなんともユニークです。
平成9年(1997)に建立されたものです。
山門のデザインは建築家の高口恭行氏で、高口氏は一心寺の長老も務められています。

仁王像も通常のものとは全く異なり、現代風で迫力があります。
口を開いている阿形像は心の邪念を戒め、口を閉じた吽形像は世の乱れをにらんでいるそうです。

阿形像
吽形像

扉には4人の肉感的な女性の浮き彫りがありました。この女性たちは天女で、インドの仏跡では人々がその胸と腰に触れて生命のご利益とするそうです。

こんなモダンな一心寺ですが、開基は文治元年(1185)と古いお寺です。
浄土宗を開いた法然上人がこの地に草庵を建て、日想観をされたのが始まりとされています。

調べてみると、日想観とは「夕日を見ながら極楽浄土を観想すること」でした。
観想とは「心を集中し、姿や性質を観察すること」なので、上町台地から海に沈む夕日をじっと見て、その向こうにある極楽浄土を思い描いたということと解釈しました。

また、法然上人が日想観をしたとき、後白河法皇と一緒だったそうです。法然上人と後白河法皇という、なんとも不思議な取り合わせ。

文治元年(1185)4月に平家は壇ノ浦で滅んでいます。後白河法皇は夕日を見ながら何を考えていたのでしょうか。
そのとき、後白河法皇が詠んだのが次の歌です。

難波潟 入りにし日をも ながむれば よしあしともに 南無阿弥陀仏

開山堂に法然上人がおまつりされています。

開山堂

関ヶ原の戦いがあった慶長5年(1600)に徳川家康の八男・仙千代君が亡くなり、一心寺で葬儀が行われました。導師を務めた一心寺住職・本誉存牟上人が三河出身ということもあって家康公との関係が強くなり、「坂松山」という山号と「高岳院」という院号を与えられます。
慶長19年(1614)の大坂冬の陣では家康公の本陣が置かれました。

寺の一角に酒封じ祈願・本多伊豆守忠朝の墓があります。
本多忠朝は徳川四天王の一人、本多忠勝の次男で、武勇に優れた豪快な武将です。
しかし、大坂冬の陣では酒を飲んでいたために豊臣方に敗れ、家康から叱責を受けます。
翌年の大坂夏の陣・天王寺の戦いで、汚名返上のため先鋒として毛利勝栄軍に突撃。奮戦およばず討ち死にを遂げます。
忠朝は「死に臨んで酒癖を悔い、酒のために身を誤るものを助けんと誓って瞑目した」といい、この墓にまいると酒断ちができるそうです。

酒封じ祈願・本多伊豆守忠朝の墓

一心寺では江戸時代末期の安政3年(1856)から年中無休の施餓鬼法要が始まりました。

おせがき
御施餓鬼と書き、餓鬼道に落ちてしまった餓鬼を供養するために行う法要。
仏教では、餓鬼道に落ちて餓鬼になった者は、飢えと渇きに苦しんでいると考えられ、食べ物などの施しを与え供養することを施餓鬼という。
通常はお盆の法要といっしょに行われるが、一心寺では年中無休で施餓鬼法要が行われている。

また、一心寺は「お骨佛の寺」でもあります。
10年間に納骨された骨を粉末状にして、セメントやセラミックと混ぜ合わせてお骨佛(仏像)が造られます。
お骨佛が始まったのは明治20年(1887)。次回のお骨佛の開眼は令和9年(2027)で、第14期になります。

おまいりさせていただいた日は、たくさんの方が参拝されていました。今まで見てきた寺の中で一番人が多いと思いました。
それも、物見遊山の観光目的ではなく、供養のために訪れた人ばかりのようでした。
一心寺に対する思い、一心寺が果たしている役割は大きいものがあると感じました。