宍粟市波賀にある波賀城までサイクリングしました。
波賀城は標高458メートル(比高約200メートル)の城山に築かれた城です。
ふもとから頂上まで舗装された林道が通り、頂上には駐車場もあります。
だけど、自転車で登るには傾斜がきつく、すぐにギブアップ。歩いて登りました。
登っていくと、山の斜面にゴロゴロした石や、石積が見えてきます。こんな山なのに、その数が多い。最近できたものかもしれませんが、もしかしたら、かなり強固な城が築かれていたかもしれないと思いました。
ようやく山頂の駐車場に着きました。
車が数台とまっていました。波賀城は人気があるようです。
ここから波賀城城址公園・波賀城までは約300メートル。
歩いていくと「波賀城跡」の大きな石碑と冠木門が現れます。近くにはトイレもありました。
でも波賀城までの道はまだ続きます。意外と遠い。しかも最後は階段を上らないといけません。
波賀までサイクリングで来たので、かなり足にこたえます。
ようやく波賀城に到着。
疲れました。でも、景色はすばらしい。疲れが癒されます。
さっそく城の中に入りました。
2階建てになっています。1階は波賀城に関する資料が展示されており、2階は展望台になっています。
すごく小さく狭い。
天守というより、物見台のようです。
後で調べてみると、この建物は「学習資料館」だそうです。
初代波賀城主は中村光時とされていますが、その前の出来事という波賀七郎の名馬伝説が残されています。
波賀城主であった波賀七郎は飛ぶように走り、京まで一日で駆け上るという名馬を飼っていた。
そのことが京にまで伝えられると、名馬を献上せよとの勅命がでた。
大切な名馬を手放したくない波賀七郎が命令に応じないでいると、六波羅の兵を率いた勅使がやってきた。
波賀七郎は名馬を馬隠しの穴に隠し、馬は死んでしまったということにした。
だまされた勅使が帰ろうとしたとき、馬がいなないてしまった。
馬が生きていることに気づいた勅使たちは馬と波賀七郎を捕らえようとする。
波賀の城兵たちは馬と波賀七郎を守るために戦った。しかし、六波羅兵は強い。追い詰められた40名の城兵は西の谷で自害した。
波賀七郎は老杉の穴に身をひそめていたが、木の中にいたヤマヒルに噛まれ流血する。
その血を勅使に見つけられ、捕らえられてしまった。
馬は捕えられる寸前に逃げ出したが、岩を飛び越えたひょうしに、東の谷川に身をおどらせて死んでしまう。
捕らえられた波賀七郎は村を見渡せる丘で斬られた。そして城主夫人、子どもも殺された。
このとき兵を率いてやってきたのが中村氏だったようです。
中村氏は秩父にいた御家人で、宍粟・千種の鉄(砂鉄)を求めて、鎌倉幕府に派遣されてきたとの説があります。
中村氏は初代城主の中村光時から第二十代・中村吉宗まで続いています。その間、赤松氏に味方したり、羽柴秀吉に味方したりしながら、戦国時代をしぶとく生き抜きました。
波賀城の特徴は石垣ではないかと思います。
波賀城の石垣には反りがなく、天正年間より前の古いタイプの石垣ということです。
天正年間以降の石垣は強度を上げるために石垣の角部に算木積みという技法が用いられて、四角く加工した石を交互に積んでいくのですが、波賀城の石垣は算木積みが未発達ということです。
こんな山城に石垣を造っていたというだけでもすごいことではないかと思います。
波賀城が落城したのは天正13年(1585)とされています。
天正13年は豊臣秀吉が関白になった年です。
播磨での戦いはとっくに終わっていたので、攻め落とされたのではなく、城割令によって開城したようです。