院庄・作楽神社

津山市院庄の作楽神社を訪問しました。

隠岐島へ護送される後醍醐天皇を忠臣・児島高徳が救い出そうとするエピソードが太平記にあります。
後醍醐天皇を励ますために児島高徳が桜の木に「天莫空勾践時非無范蠡(天勾践を空しゅうすること莫れ 時に范蠡無きにしも非ず)」の詩(十字の詩)を刻んだという話です。
作楽神社がその舞台だったとされています。

参道を進んでいくと、児島高徳の話や昭和天皇御製の歌などが掲示されていました。

作楽神社は鎌倉時代から室町時代にかけての美作守護の居館跡に、明治2年に創建された神社です。昔からあった神社ではありませんでした。
ご祭神は後醍醐天皇と児島高徳です。

作楽神社には氏子はなく、参拝者と崇敬者の寄進によってまかなわれているそうです。
児島高徳の壮挙がもっと知れ渡ると寄進する人も増えるかもしれませんね。

児島高徳像

神楽殿の方へ行くと児島高徳の像がありました。
児島高徳は備前(現在の倉敷あたり)の出身とされています。
隠岐に護送される後醍醐天皇を救出しようと船坂山(岡山と兵庫の県境)で幕府軍を襲うも失敗。院庄で十字詩を刻み、その後も一貫して後醍醐天皇に忠誠を誓って戦い続けますが、戦に勝ったという記録はあまりありません。
太平記の作者という説もある、確かな記録が乏しい謎の多い人物です。

院庄碑

院庄碑(東大門櫻樹跡/十字の詩跡)というものがあります。
津山藩の家老・長尾勝明が貞享5年(1688)に建てました。
水戸光圀公(徳川光圀)が皇室を崇敬し、楠木正成を顕彰する墓碑を建てるより4年早く、尊王思想の最初期のものだそうです。

護桜神社

原っぱの方にある倉庫のような感じがする建物は護桜神社でした。
ご祭神は作楽神社に関わりがある長尾勝明と道家大門です。
道家大門は津山藩松平家の家臣で国学者。道家大門の発起によって作楽神社は創建されました。

忠義桜十字詞之碑塔

戦艦大和の建造者である海軍技術中将・庭田尚三を会長とする忠桜会が昭和46年に建立したものです。
木の上に剣のようなものが立っています。
木は表面が削られ、「天莫空勾践時非無范蠡」と刻まれています。
木の形といい、剣の大きさといい、ちょっとすごい感じがしました。

女院塚

また、ここには女院塚というのもありました。
承久の乱で敗れた後鳥羽上皇が隠岐に流されたときに、この地で亡くなられた寵妃(女院ぐろ)をおまつりするものでした。

後醍醐天皇と後鳥羽上皇。お二人とも戦いに敗れて沖に流されました。
後鳥羽上皇は隠岐で薨去されますが、後醍醐天皇は隠岐を脱出し、鎌倉幕府を倒しますが、足利尊氏との戦いに敗れて吉野で南朝を開きます。
お二人とも波乱万丈の人生を送られました。