福山城

新幹線の福山駅のすぐ北にある福山城は徳川譜代の水野勝成によって作られました。完成は元和8年(1622)です。
明治の廃城令でも天守閣は取り壊されずに残っていましたが、昭和20年の福山大空襲で焼失してしまいました。
現在の天守閣は昭和41年(1966)に再建されたものです。

駅のすぐ側に高い石垣がそびえています。

福山城は三の丸、二の丸、本丸の三段の石垣で構成されており、このように三段の石垣があるのは最も望ましいとされていたとのことです。
空襲で焼ける前の城の様子が説明板に描かれていました。このまま残っていたらと思わずにいられません。

本丸への石段を上っていくと筋鉄御門が現れます。
この門は空襲で焼けずに残った築城時のままのものです。どこの城でも大手にある門は力強そうで、筋鉄御門を攻撃せよと命令された兵は困ったでしょうね。武士はそんなことを考えないのかもしれませんが。

筋鉄御門

筋鉄御門と同じように空襲で焼けなかったものに鐘櫓、伏見櫓があります。
伏見櫓は伏見城から移築された櫓ということで重要文化財に指定されています。
伏見城から移築されたというものは他にもあるそうですが、文献や刻字で立証される建物はこの伏見櫓だけということです。

鐘櫓
伏見櫓

本丸は広々としています。
五重五階地下一階の天守はきれいです。

内部はさまざまな展示がある福山城博物館となっています。
1階は企画展示室、2階は水野勝成と水野家、3階は阿部正弘と阿部家、4階は福山城シアター、5階の最上階は天空の間ということで展望室となっています。
2階には大阪の陣で活躍した水野勝成にちなんで「一番槍レース」という槍をかかえて馬に乗って走るゲームがありました。

水野勝成という武将のことは初めて知ったのですが、徳川家康の従兄弟ということですが、無茶苦茶な人物ですね。大変な乱暴者です。
でもその乱暴者が福山に来て、たった3年で城と福山の街を整備したのが驚きです。

また、幕末に活躍した老中・阿部正弘も福山藩主でした。
25歳で老中になり、26歳で老中首座に就任したとのこと。
現代の総理大臣に当たる老中首座に26歳の若者を抜てきするとは、江戸幕府の人材登用は意外と柔軟性があったと思います。
日本が諸外国に負けずに明治維新を迎えられたのは阿部正弘の力も大きかったようです。
水野勝成のような乱暴者と阿部正弘のような人物がどちらも福山藩主だったというのがおもしろいですね。

福山城の特徴の一つが、天守の北側が鉄板で覆われていることです。
天守が本丸の北側によっているため、外から直接攻撃されるのを防ぐために鉄板を貼り付けたといいます。
なんだか、水野勝成のような乱暴者が考えそうなことですが、築城当時にあったかどうかは不明です(最も古い記録は元禄11年(1698)の「備後福山之覚書」)。

自分たちの城を守るために、当時の人達は精一杯のアイディアを考えて実行したのですね。
そういう先人の苦労が、戦争の空襲で焼けてしまったというのは悲しい。
そんなことが2度と起こらないことを願いたいです。