不思議な童子・粉河寺

西国三十三か所巡礼の第三番札所、宝亀元年(770)の開創という粉河寺を訪問しました。

粉河駅の方から近づいていくと、朱色の大門が現れます。

門を護る仁王様も力強い。
作者は春日という奈良時代に活躍した伝説的な仏師ということです。
春日仏師は長谷寺の十一面観音像などを作ったとされています。

粉河寺のことはほとんど何も知らなかったので、この大門を見てその大きさに驚きました。

大門をくぐって中に入って参道をいくといろいろな堂宇が並んでいます。

弘法大師爪彫りの不動尊を安置する不動堂。弘法大師様が爪で彫ったのでしょうか。

千手観音がお姿をかえられたという童男をおまつりする童男堂。
童男は粉河寺の創建にも大きく関わっていました。

千手観音の化身である童男大士が柳の枝を手に白馬に乗ってこの池から出現したと伝えられる出現池。

手水鉢は江戸時代に作られたもので盥漱盤(かんそうばん)と呼ばれています。
盥漱(かんそう)とは「手を洗い、口をすすぐこと」なので、まさに手水鉢のことですね。
この盥漱盤は高さが2.4メートルもある大きなものです。

大きな門がもう一つありました。中門です。
これも立派な建物で、天保3年(1832)に建立されたものです。
門に掲げられた「風猛山」の扁額は、紀州藩主・徳川治宝公によります。

大門は仁王様が護り、この中門は四天王が護ります。
四天王は持国天(東)、増長天(南)、広目天(西)、多聞天(北)の神様たちです。
仁王様とは違った格好良さがあります。

本堂は享保5年の再建です。
西国三十三ヶ所の中で最大の大きさを誇っています。
屋根の形がユニークです。一重屋根の礼堂と二重屋根の正堂が結合した構造になっているとのことです。

粉河寺の建物は江戸時代に建てられています。
それは、秀吉の紀州攻め(天正13年/1585年)によって寺が焼かれたからでした。
当時の紀州は根来寺など寺の勢力が強く、雑賀衆という強力な集団もいました。
粉河寺も四万石ともいう寺領があり、強力な僧兵を持っていました。
激しく秀吉に対抗したようです。

粉河寺の縁起を記した粉河寺縁起絵巻(国宝)という絵巻があります。この絵巻の上側と下側には焼けたあとがあり、秀吉による焼き討ちによるものと考えられています。

粉河寺縁起絵巻には大判孔子古(おおとものくじこ)によって寺が生まれた話と童男によって長者の娘が救われた話が載っています。

紀伊国那賀郡の猟師・大判孔子古は猪や鹿を追いかけていたが、あるとき光り輝く地を見つけ、発心して、そこへ柴の庵を建てる。庵を建てた大伴孔子古は仏像安置を願った。すると一人の童子の行者が現れ、宿を借りた御礼に仏像を造るといい、庵にこもった。行者が庵に入ってから七日目に見にいくと、そこには誰もおらず、千手観音像が安置されていた。

長者の一人娘が病にかかった。いろいろ手を尽くしたが治らなかった。3年が経った頃、一人の童子があらわれ祈祷をしてくれた。すると、あれだけ苦しんだ病が消えてしまった。喜んだ両親は童子にお礼を渡そうとするが、童子は娘の刀と袴だけを受け取り、消えてしまう。
1年後、長者一家は童子にお礼をするために、童子がいるという粉河へ行くと、粉を入れたような白い流れを見つけた。その流れをたどっていくと庵があった。
庵を開けると千手観音像と娘が渡した刀と袴がある。童子が千手観音菩薩の化身だったと知った長者一族はみな出家した。

ここで出てくる童子が、参道の童男堂の童子ですね。
童子が大活躍をしています。
粉河寺は秀吉の焼き討ちにあったけれど、絵巻が完全に燃えてしまわなかったので良かったです。