和歌山県九度山の真田ミュージアム、真田庵、真田の抜け穴という真田幸村にまつわるところを訪問しました。
真田ミュージアム
真田ミュージアムでは真田昌幸、幸村、大助の親、子、孫の三代を紹介しています。
真田の赤備えが有名ですが、父の昌幸の鎧は赤ではありませんでした。
真田幸村はすごいですが、父の昌幸も個性にあふれた武将ですね。
7歳で武田信玄に人質として渡され、15歳のとき最も激しかった第四次川中島の戦いで初陣を飾ります。長篠の戦いで兄2人を亡くし、真田家の当主となります。天正13年(1585)、攻めてきた徳川家康の大群を破り、慶長5年(1600)には関ヶ原へ向かう徳川秀忠の軍を破りました。
しかし、関ヶ原で西軍が敗北したため、高野山へ流され九度山に住み着きました。
九度山に来て11年目の慶長16年(1611)、65歳で亡くなります。
徳川に2回も勝ったとは、戦の才能は抜群にあったのでしょう。それなのに、九度山に閉じ込められて悔しかったと思います。
九度山での生活は非常に厳しかったようです。
二人はどういう会話をして暮らしていたのでしょうか。なんだかわびしく、暗そうです。
でも、ここで幸村は父・昌幸の死からさらに3年、14年間を子どもの大助たちと暮らしました。ある意味、幸せな生活だったのではないでしょうか。
真田庵
真田庵は善名称院という真言宗のお寺です。
寛保元年(1741)に大安上人が真田の屋敷跡と言われるこの地に創建しました。
そんなに広くない敷地に本堂、大安上人廟堂・土砂堂、真田地主大権現などがあります。
真田地主大権現は真田家の宝である毘沙門天と真田家三代の御霊をお祀りしています
真田昌幸公の墓もここにあります。
扉には真田の六文銭が刻まれていました。
北条氏政との戦いに勝ったときに使った六文銭の紋がその発端だそうです。
真田古墳(真田の抜け穴)
真田幸村が九度山から大阪城へ脱出するときに通ったという古墳です。
古墳時代後期の円墳もしくは方墳と考えられています。
井戸のように見えますが、本来はこの上に天井石がかぶさっていたようです。
この抜け穴を通ってゆきむらは大阪城へ向かったということで、①ここから大阪城まで通じている、②真田庵からここまで通じている、③紀の川へ通じている、などの説が残されています。
でも、流石にここから大阪城までの地下道は考えられません。
真田ミュージアムでもいろいろな説が掲げられていましたが、真田幸村は九度山の里人に慕われていたようですから、大阪城への出立に協力してくれたのではないかと思いました。