近鉄西大寺駅の近くにある西大寺に参拝しました。
どういうお寺かを知らずに行ったのですが、後で調べるとたいへん由緒のある寺ということがわかりました。
- 天平宝字8年(764)、藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱の鎮圧を祈願して、孝謙上皇が四天王像を造立することを誓願された。
- 天平神護元年(765)、孝謙上皇は重祚して称徳天皇となり、四天王像を鋳造された。
- 称徳天皇の父・聖武天皇が平城京の東側に東大寺を創建したのに対して、称徳天皇は平城京の西側に西大寺を創建した。
- 平安遷都後は荒廃したが、鎌倉時代に叡尊上人によって復興された。
- 叡尊上人は戒律を復活させ、密教と戒律を融合した真言律宗を打ち立てた。
- 西大寺はその総本山である。
- 元興寺、般若寺、白毫寺、海龍王寺などは西大寺の末寺である。
西大寺駅から歩いていき、東門から入ってすぐのところにあるのが四王金堂です。
ここには称徳天皇がお造りになった四天王像がおまつりされています。西大寺の発足の像です。
ただし、何度も火災にあったようで建物は江戸時代の再建で、四天王像も再建されたものだそうです。

奥に進むと東塔跡という基壇がありました。
天平神護元年(765)、八角七重の塔の建立が計画されたそうです。
四角ではなく八角形。しかも七重という高さ。
しかし、あまりに大きすぎたのか、四角の基壇に変更されて五重塔が造られたそうです。
五重塔は、西塔は平安時代に、東塔は室町時代に焼失しました。
この基壇を上空から撮った写真を見ると、多くの礎石が配置されています。
コーナーの4つの礎石は四角の塔のためのもので、その他の礎石は八角の塔のものだといいます。八角七重塔を本当に作ろうとしていたようです。
すごいですね。

本堂は江戸時代・寛政年間に完成した建物です。
土壁を用いない独特の建築技法が使われているということです。

境内に孝謙天皇の歌碑がありました。
此里者 継而霜哉置 夏野尓 吾見之草波 毛美知多里家利
この里は 継ぎて霜や置く 夏の野に わが見し草は 黄葉ちたりけり
孝謙天皇と母の光明皇太后が藤原仲麻呂邸を訪れたときに詠んだ歌でした。意味は「この里は霜が降りつづくのでしょうか。夏野で見た草はすっかり黄葉しています」

養老2年(718) 安倍内親王誕生。父は聖武天皇、母は光明皇后。
天平10年(738) 安倍内親王は史上初の皇太子となる。
天平勝宝元年(749) 孝謙天皇として即位。
天平勝宝8年(756) 父・聖武上皇が崩御。
天平宝字2年(758) 淳仁天皇即位。孝謙上皇となる。
天平宝字4年(760) 母・光明皇太后が崩御。
天平宝字5年(761) 孝謙上皇、道鏡と出会う。
天平宝字8年(764) 藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱。敗北した仲麻呂は殺される。孝謙上皇は重祚して称徳天皇として即位する。淳仁天皇は淡路に流される。
天平神護元年(765) 西大寺の四天王像が造られる。
神護景雲3年(769) 宇佐八幡宮神託事件が起こる。道鏡は皇位につけず。和気清麻呂は大隅国(鹿児島)に配流となった。
神護景雲4年(770) 称徳天皇崩御。
宝亀元年(770) 光仁天皇が即位。道鏡、下野国別当を命じられる。和気清麻呂は大隅国から呼び戻される。
宝亀3年(772) 道鏡、下野国で死去。
「この里は~~~」の句を藤原仲麻呂の屋敷で作ったように、仲麻呂との関係が良かったようですが、そのうち道鏡との仲が深まり。。。
安倍内親王は天皇となったばかりに、独身でいなければならず、子供をつくることもできませんでした。
お父さんの聖武天皇が亡くなられてからは大事件が続きました。精一杯頑張ったんだと思います。