野洲まで輪行してきて、平家終焉の地と義経元服の地を見てきました。
義経に打ち負かされて滅んだ平家の最期の場所と、その義経が元服したという場所がたいへん近いところにある。
ちょっと皮肉な感じがしました。
平家終焉の地
野洲駅から8号線を北に走っていくと赤いのぼりが見えます。
ここが平家終焉の地、平宗盛公胴塚でした。
元暦2年(1185)3月24日、源平最後の戦いが壇ノ浦で行われました。
結果は源氏の勝利。
敗れた平家は安徳天皇はじめ、多くの武将が自害します。
平家の猛将・平知盛は鎧を2枚重ねに着て「見るべきほどのことは見つ、今は自害せん」と海に飛び込みました。
平家の総大将・平宗盛も海に入りましたが、死にきれず源氏の兵に捕らえられました。
息子・清宗ともども義経に連れられて鎌倉に向かいます。
平宗盛は鎌倉で源頼朝の尋問を受け、命乞いをする宗盛は源氏の武将に嘲笑われたとの話が伝えられています。
義経とともに京へ戻る途中、宗盛はこの地で斬殺されました。壇ノ浦の戦いから3ヶ月後の元暦2年(1185)6月21日でした。
宗盛親子の首は京都へ運ばれますが、胴はここで埋葬され、宗盛公胴塚と呼ばれています。
以前はこの塚の前に池が広がっていて、宗盛の首を洗ったことから「首洗い池」と言われたそうです。また、宗盛親子の怨念からこの池のカエルは鳴かなかったので、「蛙鳴かずの池」とも呼ばれていたとのことです。おどろおどろしいですね。
今年は平宗盛が殺されてから840回忌。いろいろな伝説が残されています。
義経元服の地
この平家終焉の地から500メートルも離れていないところに義経元服の地があります。
義経こと牛若丸が鞍馬から逃げ出して、金売り吉次と一緒に奥州に向かう途中、追っ手に迫られたため、ここで元服して姿を変えたというのです。
平家終焉の地はのぼりがひっそり立っているだけでしたが、こちらは前に「道の駅 竜王かがみの里」があって、ちょっと派手です。
平宗盛と源義経ではネームバリューが違うので仕方がないですね。
このとき牛若丸は16歳。元服して源九郎義経と名乗ったそうです。
元服に際して、水を汲んだというのが元服池です。
ここから少しいくと元服の夜、義経一行が泊まったという白木屋の跡の石碑が建っています。
鏡神社には烏帽子掛けの松というのがありました。
承安4年(1174)3月3日、鏡の宿で元服した牛若丸はこの松枝に烏帽子を掛け鏡神社に参拝し、源九郎義経と名乗りを上げ、源氏の再興と武運長久を祈願した。
松の木は明治6年(1873)の台風で折れてしまったので、幹の部分が保存されています。
義経のときの木としたら、明治6年に折れたときは最低でも樹齢700年。明治まで残っていたというのがすごいです。
鏡神社の主祭神は天日槍の神です。天日槍は持っていた神宝である鏡をこの地に納めたため、鏡という地名がついたそうです。
天日槍は垂仁天皇の御代に日本に来たとされる古い神様です。鏡神社の創建もはるか昔のこととされています。
鏡の宿で捕まらず奥州へ逃げていった義経。
ここで捕まっていたら、日本の歴史は大きく変わっていたと思います。
平宗盛を殺すとき、義経は元服した日のことを思い出したのでしょうか。