坂出まで輪行し、そこから五色台にある四国88ヶ所霊場第81番札所・白峯寺まで走りました。
白峯寺の標高は280メートル。地元ではヒルクライムの人気コースのようです。
ふもとから6キロメートルぐらい坂道が続くというのでビビっていましたが、なんとか無事に到着しました。
途中には瀬戸大橋がきれいに見えて、疲れが癒やされました。
白峯寺までの参道には二基の大きな十三重塔がありました。
崇徳上皇の供養のために源頼朝が建てたとも伝えられています。
でも、東塔は弘安元年(1278)、西塔は元亨四年(1324)に造られたようなので、ちょっと時代が違いますね。
少し進むと白峯寺の山門です。
門の左右に二棟の塀をつらねているので七棟門と呼ばれています。
白峯寺は弘法大師と智証大師円珍によって創建されたと伝えられています。
弘仁6年(815)、弘法大師は白峯山の山頂に如意宝珠を埋め井戸を掘り、衆生済度を祈願した。
貞観2年(860)、瑞光に導かれて白峯山に登頂した円珍(智証大師)は地主神の神託を受け、千手観音像を彫造し仏堂を創建した。
白峯山は昔から神様がやどる山だったのだと思います。
境内にはたくさんのお堂が建てられていて、一番高いところには本堂、阿弥陀堂、大師堂が並んでいます。
本堂でも、大師堂でも、白装束を着たお遍路さんがお経を唱えておられました。
仏教はお葬式のときにお経を唱えてもらうぐらいしか接点がないのですが、仏教に対する信仰が根付いていることを感じました。
続いて崇徳天皇をおまつりしている頓證寺殿へ行ってみました。
門は勅額門といいます。頓証寺の随身門で、左右に源為義・為朝父子の像が置かれていたそうです。
二人とも保元の乱で崇徳上皇方で戦った武将です。
乱の後、源為義は後白河に味方した息子の源義朝によって処刑されました。為朝は伊豆へ流刑された後、追討され自害します。
怨みをのんで崩御された崇徳上皇を、殺された二人が守っているという。
保元の乱で得をした者は、この門をくぐることはできなかったと思います。
勅額門をくぐると崇徳天皇御廟の頓証寺殿です。
天狗の大きな像がありました。この天狗は相模坊大権現という日本八大天狗の一人です。
相模の国で修行した後、白峯山に入山し大権現と崇拝され、崇徳上皇の守護神となったとされています。
最後に崇徳上皇がお眠りになる白峯御陵へ行きました。
白峯寺山門を出て、「西行法師のみち」を下ります。
石碑に崇徳上皇の辞世の歌と西行が詠んだ鎮魂の歌がありました。
崇徳上皇 思ひやれ 都はるかに沖つ波 立ちへだてたる 心細さを
西行法師 よしや君 昔の玉の床とても かからん後は 何にかはせん
長寛2年(1164)、崩御された上皇は遺詔によりここに葬られました。
京に怨みを持ったまま崩御された上皇は日本最大の怨霊として活躍されました。
保元の乱で敵だった源義朝は平治の乱で平清盛に殺され、平家は白峰山の前に広がる瀬戸内海で敗れ去ります。
さらに平家を滅ぼした源頼朝家は3代でなくなり、保元の乱、平治の乱を戦ったものは皆、いなくなりました。
慶応4年(1868)、明治天皇により京都に新たに創建された白峯神宮へ御霊が遷されました。