鞆の浦

鞆の浦へ行きました。
姫路の近くには室津や坂越のような江戸時代以前から栄えた海の街があります。
鞆の浦も同じような感じがする海の街でした。

福山から芦田川沿いをサイクリングをしてきて約1時間。
快晴の日で気持ちよく走ることができました。

芦田川大橋

鞆の浦に到着して、すぐに福禅寺対潮楼(たいちょうろう)へ行きました。
福善寺は天暦年間(947〜957)に創建された真言宗の寺院です。
対潮楼は江戸時代の元禄年間に建てられた客殿です。
朝鮮通信使のための迎賓館として使われました。また、坂本龍馬の海援隊の船「いろは丸」と紀州藩の船が衝突した「いろは丸事件」の談判が行われた場所でもあります。
対潮楼の座敷からは、正面に弁天島、仙酔島が見えます。朝鮮通信使の李邦彦(イ・パンオン)が「日東第一形勝(日本で一番美しい景勝地)」と称えました。
きれいですね。この風景は江戸時代から変わっていないのでしょう。

日東第一形勝

船着き場は「雁木」という階段のような構造になっています。こうすることで潮の干満に対応できるそうです。

雁木

大きな常夜灯です。
海中の部分も含めると10メートルの大きさで、日本一だそうです。

常夜灯

常夜灯の手前にはいろは丸展示館があります。
ここでは「いろは丸事件」をさまざまに見せてくれました。
民間の新興廻船業者(海援隊)が御三家である紀州藩を相手取って裁判を起こすというのは、結末を知っているものには当たり前のことのようですが、当時はびっくり仰天の出来事だったのではないでしょうか。
しかもそれに勝ってしまう。判定した人も公平ですね。

いろは丸展示館

次は足利義昭が開いた鞆幕府があるとGoogleマップに出ていた沼名前神社(ぬなくまじんじゃ)の方へ行きました。
途中には山中鹿介の首塚、ささやき橋がありました。

播磨上月城の落城により毛利に捕らえられた山中鹿之介は安芸への護送の途中、阿井の渡し(高梁市)で殺されました。その後、山中鹿之介の首は鞆の浦に送られ、足利義昭も首実検をしたそうです。足利義昭は勇猛な将・鹿之助の顔を見たかったのでしょうか。

山中鹿之介の首塚

ささやき橋は1800年の昔、応神天皇の時代の話です。

百済から王仁博士が来日しました。接待役として武内臣和多利(たけのうちのおみわたり)と江の浦(えのうら)が選ばれました。
そして、この二人は恋に落ちて、逢瀬を重ねます。
これがバレて、この橋のもとで二人は海に沈められました。
厳しい時代です。
いつの頃からか、橋のたもとから二人がささやきあう声が聞こえるようになったといいます。
橋はささやき橋と呼ばれるようになりました。

今では橋とも呼べないようなものですが、ロマンチックなエピソードが伝えられていました。

ささやき橋

沼名前神社は平安時代の延喜式に記載されている古い神社です。
ご祭神は大綿津見命と須佐之男命です。
能舞台は豊臣秀吉が築いた伏見城にあったものを移築したとされています。

沼名前神社

最後に少し離れますが、淀媛神社に行きました。
神功皇后の妹・淀姫がおまつりされています。鞆湾の入口を守護する守り神です。

淀媛神社

ここから対岸の鞆の浦が一望できます。
海の青さ、空の青さがきれいでした。