応神天皇の時代、中国・呉の国から漢服(あやはとり)、呉服(くれはとり)が日本にやってきて、機織り、裁縫、染め物など、先進の服装文化・技術を伝えたという伝説があります。
染殿池
漢服、呉服の伝説のスタートは西宮です。
松原天満宮の前に喜多向稲荷があります。
喜多向稲荷の御祭神は呉織と漢織です。
二人が布を染めたという染殿池ですが、水はありませんでした。
このあたりには津門や染殿町といった地名がついています。
はるか昔、ここは海岸で中国からやってきた漢服、呉服はここに上陸したようです。
次の伝説の地は大阪府池田市です。
ここから20キロメートル離れた池田まで、彼女たちは機を織りつつ進んでいったのかもしれません。
呉服神社
呉服が没したのは仁徳天皇76年(385)といい、139歳という驚きの長寿です。
呉服が亡くなった翌年、呉服をおまつりするために呉服神社(くれはじんじゃ)が建てられました。
阪急池田駅から呉服神社の方へ進むと、大きな鳥居がありました。
鳥居をくぐってすぐのところを左に曲がって進むと呉服神社です。
ご祭神は呉服大明神と仁徳天皇です。
社殿は天正7年(1579)の織田信長と荒木村重による有岡城の戦いにより焼失しましたが、慶長9年(604)に豊臣秀頼によって再建されました。
朱色がきれいな拝殿は昭和44年(1969)の建設です。
拝殿にはステンドグラスが設置されています。
窓越しですが、中から見ると鳥のドレスが陽の光を浴びて鮮やかです。 日本のファッション文化を向上させた呉服にふさわしく、おしゃれです。
伊居太神社
呉服神社から北へ1キロほどのところに伊居太神社(いけだじんじゃ)があります。
ご祭神は穴織大明神、応神天皇、仁徳天皇です。
穴織は呉服の妹の漢服のことで、仁徳天皇76年に亡くなり、翌年におまつりされたとされています。
亡くなった年、おまつりされた年は呉服と同じです。
本殿は有岡城の戦いにより、信長によって焼かれましたが、豊臣秀頼が再建しました。この辺の話も呉服神社と同じですね。
伊居太神社と呉服神社は深い関係があるようです。
伊居太神社には呉服神社のような派手な感じはありませんでした。
でも、だんじりが出る新町祭りという祭りは盛んなようですね。
また、ウィキペディアによると、本殿は全国唯一の千鳥唐破風寄棟造りの三社造ということです。
呉服、漢服姉妹の伝説が残っていることから、池田には布を織り、服を作ることを得意とする技術者がたくさんいたのだと思われます。
その祖となったのが中国から来た二人の女性という。
本当にそうだったら面白いですね。