天平13年(741)に聖武天皇は「国分寺建立の詔」を発しました。
「乙巳、詔曰、朕以薄徳、忝承重任。未弘政化、寤寐多慙。」
私は徳の薄い身であるのに、天皇という責任の重い地位につかせていただいています。しかし、民を導く良い政治を広めることができていません。寝ても覚めても恥ずかしい思いでいっぱいです。
天皇陛下がこんなことをおっしゃられたとは。
しかし、この思いから聖武天皇は日本全国に国分寺、国分尼寺の建造を命じました。
正式名称は「金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)」と「法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)」です。
国分寺と国分尼寺には以下のスペックが要求されました。
- 国ごとに七重塔を建て、天皇が写した経を納める
- 国分寺には20人の僧をおく
- 国分尼寺には10人の尼僧をおく
- 国分寺には封戸を50戸、水田10町を施す
- 国分尼寺には水田10町を施す
- 僧と尼僧は仏の教えを学び戒律を受けるようにする
七重塔を国ごとに建てろ!なんて、厳しい要求と思われますが、聖武天皇の熱意が込められているのでしょう。
現在、七重塔は一つも残っていません。
残念です。実物を見てみたかったです。
備中国分寺
備中国分寺と国分尼寺もこのとき創建されました。
しかし、両寺とも時代とともに衰退。
国分寺は備中高松城主・清水宗治公によって再興されるも再び衰退。
※清水宗治公:羽柴(豊臣)秀吉の水攻めにあい、自刃した。
現在見る日照山国分寺は江戸時代中頃に再興されたものです。
国分寺を再興したのは清水山惣持院の住職であった増鉄(ぞうてつ)和尚。
享保2年(1717)から19 年の歳月を費やして建立したといいます。
どういうきっかけで、国分寺を再興しようと考えたのか知りたいです。
建物はすべて江戸時代のもので、奈良時代のものといえば礎石があるだけです。
吉備路のシンボルと言われる五重塔は、国分寺再興から100年後の文政4年(1821)ごろから建立が開始され、天保14年(1843)頃に完成したものです。
高さは34メートル。岡山県唯一の五重塔です。
国分尼寺跡
国分寺から少し東に行ったところに国分尼寺跡がありました。
建物は全く残っておらず、林の中に礎石が点在しているだけです。
とはいっても、規模は南北216メートル、東西108メートルと大きなものです。
詔では尼僧は10人となっていますが、こんなに広い敷地に10人しかいなかったとは思えません。
戒律を授かったのは10人だけかもしれませんが、それ以外にもたくさんの人が働いていたのではないでしょうか。
国分寺と国分尼寺がある辺りは吉備路の中心地だそうです。
当時、仏教は鎮護国家のためのもので、最先端の科学でもありました。
たくさんの僧侶、尼僧がここで仏教を学んだのだと思います。