多田源氏・源満仲

源満仲像

JR川西池田駅前には源満仲の像が建っています。
源満仲は多田源氏を創始した平安時代の武将です。

多田が源氏発祥の地と言われるのは、多田に移り住んだ満仲の子孫から、その後の主だった武士が誕生しているからです。
源満仲には5人の息子がいました。頼光、頼親、頼信、頼平、源賢です。
多田神社の境内にあった系統図を見ると、三男・頼信の河内源氏の系統から源義家、源頼朝が生まれ、足利氏、新田氏、山名氏などにつながり、最後の方には徳川家康の名前がありました。
また、長男・頼光の系統には明智光秀がいました。
そうそうたる武士たちが源満仲を祖としていることがわかります。

今回、源満仲に関わる多田神社、頼光寺、小童寺を訪問しました。

多田神社

多田神社は天禄元年(970)、源満仲によって創建されました。当初は天台宗の寺院で通称・多田院。明治の神仏分離令により多田神社となりました。

多田神社南大門

南大門をくぐって先に進むと随神門です。
徳川家綱によって寛文7年(1667)に再建されました。
徳川家は清和源氏と称していたので、多田神社を崇敬していたそうです。

随神門

続いて拝殿です。
拝殿も寛文7年(1667)に徳川家綱によって再建されています。

拝殿

拝殿の裏手には大江山の酒呑童子の首を洗ったという鬼首洗の池や源満仲公・頼光公の御廟所があります。
いつもは柵で拝殿裏に入られないようになっているようですが、この日は開放されていました。

一条天皇(在位986〜1011)の時代、酒呑童子を首領とする鬼が暴れまわっていた。
天皇の命を受けた源頼光は家来の頼光四天王(渡辺綱、ト部季武、碓井貞光、坂田金時)を引き連れ、酒呑童子のいる大江山(福知山市)に向かい、源氏の宝刀「鬼切丸」で酒呑童子を退治した。

鬼首洗の池は酒呑童子の首を洗い清めたところからその名がつけられました。

鬼首洗の池

源満仲が亡くなったのは長徳3年(997)、多田院(多田神社)に廟所が造られました。
多田院は鎌倉、室町、江戸の各幕府から崇敬を受け、なかでも室町時代は歴代足利将軍の分骨が埋葬されました。

源満仲、頼光 両公の廟所

頼光寺

頼光寺は源満仲公の夫人・法如尼の発願により源賢僧都(美女丸)によって創建されたとされています。
源賢僧都(美女丸)は満仲公の九男で、美女丸伝説が伝えられています。

頼光寺

頼光寺は長い歴史の中で繁栄と衰退を繰り返したそうですが、現在はあじさい寺として親しまれているそうです。

少童寺

小童寺

少童寺は天延2年(974)に源賢僧都(美女丸)によって建立されました。

美女丸伝説
源満仲の末子、幼名・美女丸。
満仲は素行の悪かった美女丸を中山寺へ預け、僧になるための修行をさせることにした。
しかし、美女丸は父の教えに反し、仏門修行はせず、武勇にあけくれた。
経典を読めず管弦もできない美女丸に満仲は激怒し、重臣・藤原仲光に美女丸の首を切れと命じた。
主君の子の首を切ることをためらう仲光。
すると、子の幸寿丸が身代わりになると言い出した。
迷った挙げ句、ついに我が子の首を満仲に差し出した。
息子の首を見たくない満仲は、ろくに首を改めもせず、美女丸の首と思い込む。
難を逃れ、比叡山に上った美女丸は、心を入れ替え修行に励み、源賢阿闇梨という名僧になった。
多田に戻った源賢阿闇梨は身代わりとなった幸寿丸を弔うため小童寺を創建する。

残酷な話だと思います。我が子を殺してしまった藤原仲光があわれです。

少童寺本堂の裏には美女丸、幸寿丸、藤原仲光の墓がありました。

美女丸、幸寿丸、藤原仲光の墓

また、頼光四天王の渡辺綱の廟所、ト部季武、坂田金時、平井保昌の墓もありました。

渡辺綱公の廟所
ト部季武、坂田金時、平井保昌の墓

多田にはいろいろなエピソードが残っていますが、探せばもっとあるのでしょう。
それにしても、源満仲は、まさか自分の子孫たちが将軍になるとは思いもよらなかったでしょうね。