犬養木堂記念館

吉備津神社を訪問したら、駐車場の奥に大きな像がありました。
五・一五事件で亡くなった犬養毅でした。

犬養毅は岡山の出身で、生家は吉備津神社のすぐ近くにあるとのことです。なんとなく興味が湧いたので行ってみました。

犬養毅は安政2年(1855)生まれ。犬養家は代々大庄屋を務める家でした。
犬養家の家屋は近世後期の大庄屋の屋敷として昭和52年に岡山県指定の史跡となり、昭和53年には国の重要文化財に指定されています。

生家の隣には犬養木堂記念館が建てられ、犬養毅について学ぶことができました。

玄関には犬養毅の等身大の看板があり、背が低かったことがわかります。

記念館は平成5年(1993)に建てられたもので、建屋の中に白壁が再現されているデザインです。
意外とお金がかかってるなあ、と思いました。

安政2年(1855)、犬養家の次男として生まれる。
万延元年(1860)、5歳、父から四書五経の素読を受ける。
慶応元年(1865)、10歳、犬飼松窓の三餘塾に入る。
明治元年(1868)、13歳、新政府がスタート。父が死去。
明治5年(1872)、17歳、小田県庁(岡山県笠岡市)に勤務。
明治8年(1875)、20歳、学問を志して上京。慶應義塾大学に入る。
明治10年(1877)、22歳、西南戦争勃発。報知新聞の従軍記者となって西南戦争に行く。

年を取った威厳のあるヒゲを蓄えた顔しか知りませんでしたが、若い頃の写真では、可愛らしい顔をしています。
従軍記者となって、毅が書き送った「戦地直報」が人気を呼んだそうですが、どこでそういう文章力を学んだのかな?と思います。子供の頃に教えてもらった四書五経が役に立ったのでしょうか。

明治15年(1882)、27歳、東京府会議員に当選。
明治23年(1890)、35歳、衆議院議員選挙に当選。以後19回連続で当選する。
明治27年(1894)、39歳。日清戦争勃発。
明治31年(1898)、43歳、大隈内閣の文部大臣に就任。
明治37年(1904)、49歳、日露戦争勃発。
大正2年(1913)、58歳、憲政擁護運動で「憲政の神様」と称される。

27歳から政治の世界に入っていきました。
報知新聞には尾崎行雄や原敬といった後の大政治家がいたので、彼らの影響があったのかもしれません。
大正元年(1912)、犬養毅は尾崎行雄と憲政擁護会を結成して憲政擁護運動を行い、藩閥政治から政党政治への変化を目指しました。
現在、政党によって政治が行われるのは当たり前と思っていますが、そうでない時代があったのですね。

大正12年(1923)、68歳、関東大震災。逓信大臣に就任し、関東大震災の復興に尽力する。
大正14年(1925)、70歳、普通選挙が公布される。大臣および議員を辞職したが補欠選挙で再選される。
昭和4年(1929)、74歳、昭和恐慌。政友会総裁に就任。
昭和6年(1931)、76歳、満州事変勃発。首相に任命され、犬養内閣を組閣。
昭和7年(1932)、77歳、五・一五事件で死去。

激動の時代を生き抜いてこられたのがわかります。
五・一五事件ではクーデターを起こした海軍将校に撃たれる前に、「話せばわかる」と言い、撃たれたあとは「今撃った男を連れてこい。よく話して聞かすから」と言ったと伝えられています。
話をすること、議論を戦わせることに、本当に価値を見出しておられたのでしょう。

記念館には犬養毅が書いた漢詩がたくさん展示されていました。
木道(ぼくどう)という号を使っています。
毎年、年始には漢詩を作り、きちんと筆を使って書いています。政治をするだけではなく、こういう教養を持っておられる人でした。
ステキだと思います。
トランプさんとは真逆ですね。それがどうしたと言われそうですが。

記念館には犬養毅首相を訪問したときの写真が展示されていました。おびただしい人が写った大パノラマ写真です。
こんなにたくさんの人に慕われている、こういう記念写真を撮ることができたというのが素晴らしいなと感じました。