
春日大社は観光客でにぎわっていました。
鹿もたくさんいます。春日大社は奈良公園から奥まったところにあるので、こんなにたくさんの鹿がいるとは思っていませんでした。
実は、奈良の鹿は春日神社が発祥のようです。
その昔、春日神社が創建される際、春日大社のご祭神の武甕槌命(たけみかづちのみこと)が常陸の鹿島神宮から白鹿に乗ってきたという言い伝えがあり、鹿は神様のお使いとして扱われるようになったということでした。

手水所にも鹿がいました。
この鹿がくわえているのは「御神水のおみくじ」だそうです。

春日大社は全国に3,000近くある春日神社の総本山です。藤原氏の氏神でもあり、都(平城京)の守護、国の繁栄を願って創建されました。
神護景雲2年(768)に創建とされていますが、それ以前から御蓋山(三笠山)、春日山は神宿る山と認識され、祭り事が行われていました。
和銅3年(710)、平城京建設。
霊亀3年(717)、三笠山の麓で遣唐使の安全祈願が行われる。
天平7年(735)、春日四所明神を春日山に祭祀。
天平勝宝2年(750)、孝謙天皇が春日酒殿に行幸。
天平勝宝2年(750)、光明皇太后が春日四所明神をまつる。
天平勝宝4年(752)、大仏開眼。
神護景雲2年(768)、称徳天皇の勅命により現在地へ御社殿が造営される。
主祭神は春日大神である武甕槌命(たけみかづちのみこと)、経津主命(ふつぬしのかみ)、天児屋根命(あめのこやねのみこと)、比売神(ひめがみ)です。
拝観料を払って特別拝観コースを回りました。

本殿前の東御廊にはたくさんの釣燈籠が並んでいます。
釣燈籠を奉納した人の中には知っている人物もいました。第5代将軍・徳川綱吉、藤堂高虎、宇喜多秀家、直江兼続。徳川家自身、その味方、そして敵もいました。それぞれが春日の神様に祈りを込めて釣燈籠を寄進したのでしょう。

綱吉公のお母さんである桂昌院は鋳銅製の灯籠を寄進しています。
桂昌院は本庄家の養女となり大奥に上り、春日局に見出され、徳川家光に近侍し綱吉を生みました。本庄家が藤原氏の流れであるから、この灯籠を寄進したものと考えられています。

回廊を進んだ先に御蓋山遥拝所がありました。
御蓋山は武甕槌命が降り立った山なので禁足地として入山が規制されています。しかし、年に4回開催される春日山錬成会に参加すれば入山が許されます。
春日神社のホームページによれば、全長は約16キロ、高低差が500メートル。しかも急勾配があって、約7時間徒歩のコースとのこと。かなりの健脚向けのコースのようです。

横の方には大きな杉の木があります。樹齢は1000年を超えているそうです。
屋久島の縄文杉は3000年の寿命を誇りますが、一般的な杉の寿命は500年程度とのことです。
春日大社の杉が切り倒されることは絶対にないでしょうから、どれくらい長生きするのでしょう。

杉の横には屋根(直会殿)の突っ切って伸びる木(イブキ/ビャクシン)もいます。木は勝手に大きくなるので、人間の都合でやめてもらうこともできず、屋根に穴を開けるしかありませんね。

万燈籠神事を再現する藤浪之屋。
暗闇の中、灯かりがついた燈籠がステキでした。

春日神社には3000基もの燈籠があり、室町時代以前の燈籠の6割以上が春日神社にあるそうです。2月の節分、8月14日と15日にすべての燈籠に明かりを灯す春日万燈籠が行われます。
壮観だと思います。
1つの石碑がありました。阿倍仲麻呂が作った
天の原 ふりさけ見れば 春日なる 御蓋の山に いでし月かも
の歌が刻まれています。
春日なる御蓋山はここの山だったのですね。
19歳で唐に渡り、日本に帰ることができないまま中国で亡くなりました。唐に渡る前には春日大社で安全を祈願しました。

春日大社と御笠山には数え切れない人が関わり、それぞれの物語を作っているのですね。