
湊川神社を訪問しました。
主祭神は楠木正成公。配祀神として楠木正行公と楠木正季公以下、湊川の戦いで亡くなった一族16柱がおまつりされています。
湊川神社は明治5年(1872)に創建された神社です。
創建には楠木正成公が大いに関わっています。

楠木正成公の一代記を説明する看板がありました。
正成公は永仁2年(1294)に誕生。
元弘元年(1331)、笠置山の後醍醐天皇に召し出され、忠誠を誓う。
正成公が赤坂城や千早城で戦いを繰り広げる間に、倒幕の火の手が全国に広がり、元弘3年(1333)に鎌倉幕府は滅亡した。
建武の新政が始まるが、足利尊氏が反旗を翻す。
延元元年(1336)、湊川において700の手勢を率いて足利尊氏の大軍と戦い、自刃した。
嫡男・正行公は南朝方として戦い続けるも、正平3年(1347)四条畷の合戦で自刃した。
元禄5年(1692)に水戸黄門こと徳川光圀公によって正成公の墓所が作られました。
幕末、正成公を慕う志士たちが多く参拝に訪れ、明治元年(1868)に明治天皇によって神社創祀の御沙汰が下され、明治5年(1872)に創建された。

正成公が自刃したのが本殿の裏手にある「殉節地」です。
戦いに敗れて、残った味方はわずか73名。弟・正季公と七生滅賊を誓い、刺し違えました。このとき、73名全員が自刃したそうです。
鎌倉幕府が滅亡したときには、北条高時公といっしょに870名もの人が腹を切ったといいます。
当時は、主君と一緒に死ぬというのが武士の生き様だったのでしょうか。恐ろしいですね。

徳川光圀公が建てた楠木正成公の墓は神門に入る手前にあります。

楠木正成公の墓は「嗚呼忠臣楠子之墓」と呼ばれています。
亀の背にある墓碑の「嗚呼忠臣楠子之墓」の文字は光圀公自らが書いたものでした。

この墓が建てられたのは元禄5年(1692)です。
その前には、尼崎藩主・青山幸利公が領地巡回中に、大倉山のふもとで楠木正成公の墓があるのを見つけて五輪塔を建てた(寛永20年/1643年)といいます。
また、記録に残る最も古いのは太閤検地(1592〜1596)のときに正成公の墓が発見されたとあります。
太閤検地から青山幸利公の五輪塔建設まで約50年。その後、光圀公によって墓が建てられるまで、さらに50年かかっています。
南朝を正統なものと考えた徳川光圀公以前は、正成公は重要視されていなかったのではないかと思われます。室町幕府・北朝からしたら、敵だったのだから当然かも知れません。

最後に宝物館を訪問しました。
正成公を描いた絵画や刀。そして、正成公が着用したという鎧が展示されています。
意外と鎧が小さいなと思いました。小柄な私でも入らないかもしれないと思うような大きさでした。絵画に書かれている正成公は全く小柄な感じはしませんが、鎧の大きさからすると小柄な人だったのではないかと思いました。
楠木正成公は謎が多い人物です。
出自や、どういうことで富を得ていたのかなどはわかっていないようです。
倒幕活動を開始する前には鎌倉幕府の命に従い、幕府に反逆した武士集団を討ったこともあります。軍を指揮する能力はたいへんに高かったようです。
なにより、敵であった足利尊氏からも評価された忠義深く清廉な人柄がすばらしい人だったのでしょう。
