
なにわ七幸めぐりの無病息災の寺、太融寺を訪問しました。
JR大阪駅から徒歩10分のところにあるお寺です。
創建は弘仁12年(821)。弘法大師が森の中から霊木を見つけて草庵を建てたのが起源といいます。
場所は現在地とは違うかもしれませんが、昔はこのあたりにも森が広がっていたのですね。想像もできません。
御本尊の千手観世音菩薩は、弘法大師が霊木を見つけたという話に興味をそそられた嵯峨天皇が、この地に行幸して下賜したものと伝えられています。
その後、承和10年(843)に嵯峨天皇の皇子である源融(みなもとのとおる)がこの地を訪れ、源融の”融”をとって太融寺と名づけられ、七堂伽藍が建立されました。
源融は源氏物語の光源氏のモデルではないかとも考えられている人物です。

伽藍は慶長20年(1615)の大阪夏の陣で全焼するが元禄年間に復興。
昭和20年(1945)の大阪空襲でも焼失しましたが、昭和35年(1960)に本堂が、昭和61年に宝塔や一願堂などが再建されて現在の姿になりました。
御本尊の千手観世音菩薩は高野山に避難されていたので戦火にあっていません。嵯峨天皇からいただいてから、1200年も守られてきました。良かったですね。

宝塔の下に一願堂があり、一願不動尊がおられています。
一願成就のご利益をかなえていただけます。
一願不動明王の提灯に囲まれた一願不動尊。薄暗い中、黒っぽいお体で立っておられる不動尊から、不思議なパワーを感じました。

一願堂の奥は滝が流れる奥の院です。
洞窟内に不動明王が安置されているそうです。

太融寺のパワーは一願不動尊だけではありません。
西門を入って左手にあるのが白竜明神で、女性の縁結びの神様です。
パワースポットになっているそうです。

白竜明神の隣には淀殿の墓がありました。
大阪夏の陣(慶長20年/1615年)に敗れて自害した淀殿。
子供の頃に織田勢に攻められて住んでいた小谷城が落城して父・浅井長政は自害。柴田勝家と再婚した母・お市の方といっしょに暮らした北の庄城は豊臣秀吉に攻められて落城し、勝家とお市の方は自害する。その豊臣秀吉の側室となって秀頼を生み、最後は大阪城が落城して我が子と一緒に自害する。
淀殿にはいろいろな評価はありますが、すごい人生を送ったと思います。でも、ちょっと可哀想です。浅井長政が織田信長を裏切らなかったら、ぜんぜん違う人生を送っていたでしょう。

太融寺には他にも「玉の海正洋の碑」や「近代日本政党政治発祥の地碑」などの史跡が残っています。
エピソードが多いのも、太融寺の歩んできた長い歴史がなせることだと思いました。