温羅(うら)と吉備津彦命が戦う温羅伝説。桃太郎伝説のもとになったとされています。
温羅伝説
第10代崇神天皇の頃、鬼ノ城に温羅という鬼がいた。
朝鮮から来たといい、人々を苦しめていた。
吉備津彦命が温羅を退治しにやってきた。
吉備の中山に陣を構えた吉備津彦命が矢を放つと、温羅が投げた岩とぶつかり合う。
再び矢をつがえた吉備津彦命。今度は矢を2本つがえていた。
矢が放たれる。
一矢は温羅が投げた岩とぶつかって海中に落ちたが、もう一矢は温羅の左目に突き刺さった。
温羅の目からは川のように血が流れ、血吸川が生まれた。
雉になって山中に隠れる温羅。吉備津彦命は鷹となってこれを追う。
温羅は鯉になって血吸川に逃げたが、鵜に化身した吉備津彦命に捕まえられた。
降参した温羅は吉備冠者の名を吉備津彦命に奉った。
吉備津彦命は温羅の首をはねて、串にさしてさらしものにした。
すると、その首が大声を発するようになった。
首は犬に食われてドクロになっても唸り続ける。
吉備津彦命は吉備津神社御釜殿のかまどの下に首を埋葬した。
それでも首は13年間も唸り続けた。
ある夜、温羅が吉備津彦命の夢枕に立った。
「わが妻、阿曽媛に釜殿の神饌を炊かせよ。命の使者となって吉凶を告げよう」
吉備津彦命がお告げ通りにしたところ、温羅の唸りはおさまった。

岡山・吉備路に残る伝説の舞台をめぐってみました。
鬼の住処・鬼城山

温羅が住んでいたとされる鬼城山。
標高400メートルの山で、頂上には古代山城「鬼ノ城」があります。
ふもとの砂川公園から登ってくると、道の端に「鬼の釜」と呼ばれる大きな釜がありました。
ふもとの村から人をさらってきて、気に入らない者を茹でた釜と言い伝えられています。

調査によると、この釜は鎌倉時代に造られたもので、材料はふもとの阿曽村で採れた鉄ではないかと言われているので、温羅とは全く関係がなさそうです。
鬼ノ城から2キロほど奥には奥坂の集落があります。
ここには文武天皇の皇子・善通大師が開いたという岩屋寺があります。今はなくなった新山寺とともに平安時代には山上仏教の中心地として栄えていたそうです。

毘沙門堂のそばには巨大な「鬼の差し上げ岩」があります。
本当に大きい岩です。重さは約150トンと推定されています。

「こんなに大きい石を持ち上げられるのは人間では無理だ。鬼の仕業に違いない。
身を隠す岩屋もある。ここに鬼が住んでいた」
のようなところから ”鬼” の名がつけられたのかと思います。
このあたりは鬼の差し上げ石だけではなく巨大な石がたくさんあります。
巨石信仰からだと思いますが、江戸時代には観音三十三箇所巡礼道が作られました。いまではハイキングコースになっています。

鬼ノ城は白村江の戦いに負けた日本が唐・新羅の連合軍の侵攻に備えて、7世紀後半に建設したと考えられています。
しかし鬼ノ城は鬼城山の遺跡調査が昭和46年(1971)に行われて、ようやく古代山城であることが発見されたという、公式記録には一切書かれていない謎の城です。
鬼ノ城は作られたものの、城があったということは忘れられていたようです。
岩屋にある巨石群、何のものだかわからなかった鬼ノ城遺跡。そういったものから鬼城山に温羅が住んでいたという伝説になったのかと思いました。