淡路島にある早良親王の墓に行ってきました。
早良親王は平安京を造った桓武天皇の弟で、皇位継承の争いから淡路島への流罪の途中に亡くなり、淡路島に葬られました。
そして、祟りをなす怨霊として大活躍をしました。
桓武天皇の時代を年表にまとめてみました。
- 神護景雲4年(770)、称徳天皇が薨去する。
- 藤原百川らに担がれて光仁天皇が即位した。62歳という高齢であった。皇后は井上内親王、皇太子は他戸皇子だった。
このとき山部王(のちの桓武天皇)34歳。 - 宝亀3年(772)、藤原百川らの陰謀で井上皇后と他戸皇子は謀反の疑いをかけられて皇后、皇太子から廃位される。
- 宝亀6年(775)、井上皇后と他戸皇子は幽閉先で死去(暗殺された疑いがある)。
山部王(桓武天皇)が37歳で皇太子となる。 - 天応元年(781)、光仁天皇が退位し、山部王が桓武天皇として即位する。
このとき桓武天皇は45歳。
弟の早良親王が皇太子とされた。 - 延暦元年(781)、桓武の即位に不満を持つ氷上川継が謀反を計画したが、失敗して伊豆に流される。
- 延暦3年(784)、長岡京に遷都。藤原種継が長岡京造営の責任者であった。
- 延暦4年(785)、藤原種継が暗殺される。
早良親王が謀反の疑いをかけられ皇太子を廃され、淡路国への流罪となる。
早良親王の代わりに桓武天皇の嫡子安殿親王(のちの平城天皇)が皇太子となる。
乙訓寺(京都市長岡京)に幽閉された早良親王は断食を行い、無実を訴えたが、聞き入れられることはなく、淡路島への移送の途中(現在の大阪府守口市付近)で亡くなる。
早良親王の遺体は淡路国に運ばれた。
*断食ではなく飲食を絶たれて殺されたという説もある。
早良親王の祟りがはじまる
- 延暦7年(788)、藤原百川の娘で桓武天皇夫人の旅子が30歳で亡くなる。
- 延暦8年(789)、桓武の生母高野新笠が死亡。
- 延暦9年(790)、皇后乙牟漏と妃である坂上又子が亡くなる。飢饉が発生し、天然痘が流行する。
さらに安殿親王が発病。
相次いで起こる不幸は早良親王の祟りによるものと考え、淡路国津名郡の郡司に早良親王の墓の管理を命じる。 - 延暦11年(792)、卜占により安殿親王の病気の原因は早良親王の祟りであると判断される。
- 延暦13年(794)、平安京に遷都する。
- 延暦16年(797)、安殿親王の病気平癒祈願の功により善殊が僧正に任じられる。
*安殿親王の病気は精神的なもので、この頃から立ち直ってきたと考えられている。 - 延暦19年(800)、早良親王に崇道天皇と追号する。
- 延暦24年(805)、淡路島から大和国添上郡八嶋陵(現在の奈良市)に改葬される。
- 延暦25年(806)、桓武天皇崩御。安殿親王が平城天皇として即位する。
早良親王の墓の候補地が2箇所あります。
一つは淡路市仁井の天王の森。もう一つは淡路下河井にある高島陵です。
天王の森
天王の森は兵庫県淡路市仁井にあります。
淡路島を縦断する神戸淡路鳴門自動車道の仁井トンネルに近い、山の頂上付近です。自転車で行ったのですが、非常に厳しい登り道でヘトヘトになって到着。
小さな祠があり、前には天王池と呼ばれる池がありました。


高島陵
高島陵は伊弉諾神宮に近いところにあります。
建物などはなく、小さな五輪塔が建てられていました。
五輪塔へ続く道の入口には「淳仁天皇御陵」とあり、この陵は早良親王墓ではなく、淳仁天皇陵とされています。

- 早良親王の墓は淡路国の群司が墓を守っていたので、墓は郡衙(郡の役所)から遠くないところにあったと思われる。
- 当時の郡衙は淡路市郡家にあったと見られている。
- 仁井は郡家から遠い。
仁井の天王の森まで自転車で走った実感でも、こんなところまで早良親王の遺体を運んできたのかと疑問に思いました。 - 高島陵は郡家港から2キロメートルほどのところにある。
- 高島陵からだいぶ離れた南あわじ市に、宮内庁により比定された淳仁天皇陵や母の当麻夫人墓や淳仁天皇が幽閉されていたという大炊神社がある。南あわじの方が淳仁天皇に関する史跡の密度が濃い。
- 淡路の国府は南あわじ市神代國衙にあったと考えられている。
- 淳仁天皇が幽閉先から逃亡したとき、淡路守佐伯助が天皇を捉え、翌日淳仁天皇は亡くなった。
以上の点から、個人的には高島陵は早良親王の墓ではないかと思います。
しかし、やっぱり早良親王を埋めたのは仁井の天王の森だったのかもしれませんし、幽閉先から逃げ出した淳仁天皇は高島陵で亡くなったのかもしれません。
今後、研究が進んで、新たな事実がわかるとおもしろいですね。