
第16代仁徳天皇は上町台地の難波に宮を設けました。高津宮(たかつのみや)といいます。
それから約450年後の貞観8年(866)。第56代清和天皇が仁徳天皇が築いた高津宮の遺跡を探しだし、その地に社殿を築きました。
これが高津宮(こうづぐう)の創建とされています。
天正11年(1583)、豊臣秀吉の大阪城築城によって現在地に遷座されました。
遷座前はもっと大阪城に近いところにあったようですが、どこにあったかは特定されておらず、謎となっています。
今から約450年前、記録がいっぱい残っている桃山時代のことでさえわからないのに、今から1200年前の平安時代に、その450年前の仁徳天皇の都の跡地をどうやって見つけたのかと不思議に思います。
ちなみに仁徳天皇が築いた高津宮は「たかつのみや」といい、清和天皇が築いた高津宮は「こうづぐう」と読み方が変わるようです。
仁徳天皇は善政を敷いた天皇として知られています。
民の家から炊煙が立っていないことに気づいた天皇は、民の苦労を軽くするために税を免除し、その3年後、高台より国を見渡して(高き屋より国見をして)、「高き屋に のぼりて見れば煙たつ 民のかまどは賑わいにけり」の歌を詠んだというエピソードです。
歴史のある高津宮にはいろいろなものが残されています。
参道にかかっている橋は「梅乃橋」、参道脇にあるのは「梅ノ井」です。高津宮の周りは梅の名所で、橋の下を梅川と言う川が流れていたそうです。

この石橋は明和5年(1768)に天満九丁目の長浜屋五兵衛が奉納したことがわかっています。梅川の下流が開削されて道頓堀になったそうです。

梅川の辺にあった名水で上町台地の伏流水が湧いていたそうです。現在、梅ノ井は空井戸となっています。
梅ノ井の隣の石碑は献梅碑です。
説明板に、日本に渡来した王仁博士が梅に和歌を添えて仁徳天皇に奉ったこと、それを元に献梅会の氏子らが毎年2月に梅花を奉納していること、王仁博士の歌が書かれていました。
難波津に 咲くやこの花 冬ごもり
今は春べと 咲くやこの花
石段を登ると社殿が現れます。
大坂市内の神社はほとんどそうですが、高津宮の社殿も太平洋戦争の空襲によって神輿庫を除いて焼失し、戦後に再建されたものです。

おまつりされているのは仁徳天皇、履中天皇(仁徳天皇の子)、応神天皇(仁徳天皇の父)、神功皇后(仁徳天皇の祖母)、仲哀天皇(仁徳天皇の祖父)の仁徳ファミリーです。

境内には高倉稲荷神社、安井稲荷神社、比売古曾神社、谷末社があります。
高津宮がこの地に遷る前、ここは比売古曾神社の社地でしたので、比売古曾神社こそが地主神です。

谷末社はまさに谷底にある感じです。
白菊社(草野姫命)、千年社(大市姫命)、常高社(大山祗命)の神様がおられます。
また、ここには大きな陰陽石もありました。どういう理由で陰陽石が置かれたのでしょうか。


また高津宮は熊野詣の99王子の第3番目の郡戸王子とされています。
京都の城南宮を出発して淀川を下り、渡辺津で上陸。
窪津王子(坐摩神社行宮の地)、坂口王子(南大江公園周辺とされる)の次の王子となります。
高津宮は少し高台にあるのですが西の斜面には階段が2つあります。
相合坂(あいおいざか)と縁切り坂(西坂)です。
相合坂は横から見ると二等辺三角形のようになっており、男女が2箇所の登り口から上がっていって頂点でピッタリ出会うことができたら相性が良いとされています。
縁切り坂は、その形が三行半になっていることから縁を切る坂とされていて、悪縁を絶つのに良いそうです。


色々なエピソードが残されている高津宮。
隣には「花の公園」があり梅が咲いて、家族連れが来られていました。
大阪の人々に愛されてきた神社だと思いました。
