鶴岡八幡宮を訪問しました。
創建は康平6年(1063)。
河内源氏2代目の源頼義公が京都の石清水八幡宮から八幡神を由比ヶ浜に勧請し、治承4年(1180)に源頼朝公が現在地に遷したという、源氏にたいへん関わりがある神社です。
ご祭神は応神天皇、神功皇后、比売神の3神です。

鳥居をくぐって境内に入りましたが、塀とか柵がなくてスケールが大きい感じがしました。
太鼓橋の両側にある源平池という池も大きいです。
寿永元年(1182)、源頼朝の命令によって作られた池です。東側の池は源氏池。西側の池は平家池だそうです。

舞殿は静御前が舞を舞ったという若宮回廊跡に建てられています。
吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき
しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな
吉野山で源義経と別れたあと、捕らえられ、鎌倉へ送られた静御前。義経の敵となった頼朝の前で、義経を慕う歌を詠み、舞を踊りました。これに激怒した頼朝を妻の北条政子がとりなしたと伝えられています。
その後、義経の子を身ごもっていた静御前は男児を出産。生まれたのが男の子だったため、その子は殺されてしまったとか。
その子が大きくなって、父の敵として頼朝の敵になると困るからですが、厳しいですね。
頼朝は平治の乱で敗れた際に平家に殺されそうになったところを、平清盛の義母・池禅尼が「この子は亡くなった我が子に似ているから」と助命を嘆願してもらって生き延び、最後には平家を滅ぼしてしまいました。
自分と同じようなことをする可能性がある者を絶対に排除したいと考えたのですね。

舞殿からまっすぐに進むと61段の大石段です。
この石段の13段目で三代将軍・源実朝公が甥の公暁に殺されたとされています。
公暁は二代将軍・源頼家の子です。頼家は伊豆の修善寺に幽閉され暗殺されたため、実朝を親の敵として襲ったという説があります。
このエピソードから石段は大きくて長いと思っていましたが、それほど大きい感じはしませんでした。
どうしてちゃんと警護ができなかったのかと少し不思議です。

石段を上がると本宮です。
文政11年(1828)に徳川家斉によって再建されたもので、応神天皇、神功皇后、比売神がおまつりされています。

3月はじめの暖かい日に訪問しましたが、修学旅行生やたくさんの観光客で賑わっていました。
観光客が多いというのは同じですが、建物のたたずまいは京都の神社などとはだいぶ違うことを感じました。
武家の神社だからでしょうか。