鯉に変身した温羅と鵜に変身した吉備津彦命が戦った鯉喰神社から東の方にある王墓山丘陵には多くの遺跡が残っており、王墓の丘史跡公園として整備されています。
楯築遺跡は王墓の丘史跡公園の最も北に位置し、吉備津彦命と温羅が戦ったときに吉備津彦命が陣を構えて石の盾を置いたと伝えられています。

遺跡は標高46メートルの楯築山の頂上にあります。意外ときつい坂を自転車で登っていき、王墓の丘史跡公園に入っていきました。
道沿いには楯築遺跡を説明する看板が並んでいます。大規模な発掘調査が行われたようです。


給水塔撤去の工事現場横を通って、頂上につくと平べったい大きな石がありました。
まさに盾を思わせる形をしています。
これが吉備津彦命が盾にしたという石でした。

ボランティアガイドの方が楯築遺跡について教えてくれました。
- 楯築遺跡は弥生時代後期、2世紀後半(180年頃)に造られた墳丘墓である。
- 日本最古と言われる奈良の箸墓古墳より前に造られている。
- 全長は約80メートルで、弥生時代の墳丘墓としては日本最大である。
- 当時の吉備にはこの大きさの墓を作ることができる首長がいた。
- 卑弥呼は247年に亡くなったとされているので、それより2世代くらい前の人である。
- 当時の奈良(大和)はこの規模の墓を作ることができなかった。
- 発掘の結果、木棺が見つかり、勾玉やガラスの玉が副葬されていた。骨は溶けてなくなっていたが、歯が2つ見つかった。棺の底には32キロの朱(水銀朱)が敷き詰められていた。
- 水銀朱は不老長寿の薬と考えられていた。その水銀朱が32キロもあったということは、埋葬された人がいかに大きな力を持っていたかが想像できる。
- 歯は小型だったので女性の可能性がある。
- 頂上にある大きな石は、楯築遺跡ができた当初から置かれた石である。何のための石であるかはわかっていない。
- 埴輪の原型である特殊器台は吉備で生まれた。その特殊器台が箸墓古墳からも見つかっている。
- 吉備と大和に交流があったことがわかる。大和の建国に吉備が大きく関わった可能性もある。
ということで、楯築遺跡は吉備津彦命と温羅の戦いには関係ないが、弥生時代の墳丘墓として大きな価値がある遺跡でした。
また、楯築遺跡の重要なものに御神体石・旋帯文石があります。昔は頂上に楯築神社が建てられていて、旋帯文石が御神体だったそうです。
現在、楯築神社は鯉喰神社に合祀され、旋帯文石は頂上に設置された収蔵庫に納められていてガラス越しに見ることができます。

旋帯文石は帯のように線が刻まれて不思議な模様をしており、正面には顔の形をした浮き彫りがあり、亀石と呼ばれているそうです。
石が置かれた角度のせいで正面の顔を見ることができなかったのは残念ですが、線が刻まれているのはわかります。この模様にもなにか理由があるのでしょうね。
卑弥呼以前から、吉備には大きな権力を持った王がいて、大きな墓を作れる豊かさがありました。また、吉備が大和を作った可能性があるし、邪馬台国が大和だったら吉備は投馬国だった可能性もあるそうです。
吉備とは、すごいところだったのですね。
研究が進んでいろいろなことがわかることを期待したいです。