大坂・坐摩神社

坐摩神社の三ツ鳥居

坐摩神社?
読み方がわかりませんでした。
「ざま」かと思ったら、「いかすり」と読むのでした。

御祭神は坐摩大神(いかすりのおおかみ)。生井神(いくいのかみ)、福井神(さくいのかみ)、綱長井神(つながいのかみ)、阿須波神(あすはのかみ)、波比岐神(はひきのかみ)の5柱の総称です。
「いかすり」という言葉は、土地または居住地を守り給う意味の居所知(いかしり)が転じたものとされています。
御神徳は住居守護、旅行安全、安産守護です。

坐摩神社は神功皇后が新羅より御帰還されたときに、淀川南岸の渡辺の地(天満橋の近く)に奉祀されたのが始まりとされています。
その後、豊臣秀吉が大坂城を築城する際に立ち退きを命じられ、現在地に遷座されました。

坐摩神社の現在の住所は「大阪府大阪市中央区久太郎町4丁目渡辺3号」です。
「4丁目」の次に「渡辺」が続いています。普通なら「4丁目」の次は数字だと思います。
こういう地名になったのには理由がありました。

坐摩神社がもともと鎮座された地に巨大な港・渡辺津があった。
渡辺とは「渡しの辺(わたしのほとり)」の意味で、そこに渡辺村があり、渡辺姓の発祥地だった。
坐摩神社が現在地に遷座したときに、この地に「渡辺」の町名がついた。
昭和63年(1988)、その「渡辺」が地区統合のために消えることになった。そのとき由緒ある「渡辺」の地名消滅に反対する運動が起こった。
苦肉の策として「丁目」の次に「渡辺」をつけることになり、現在の地名となった。

中央区久太郎町4丁目渡辺

また、久太郎町という地名を調べてみると、百済町(くだらちょう)から転じたという説と、堀久太郎(秀吉の家来)がこの地に屋敷を構えていたからという説があるそうです。

地名にも影響を及ぼした坐摩神社は上方落語寄席発祥の地でもありました。

「上方落語寄席発祥の地」碑

江戸時代の落語家、初代桂文治が坐摩神社の境内で寄席を開いて興行しました。
それまで寄席というものはなく、落語は大道芸に近い芸能だったそうです。
桂文治が初めて寄席で噺をする方法を生み出し、上方落語が発展していったとされています。

天満橋近くにある渡辺津記念碑と坐摩神社行宮にも行ってみました。

渡辺津

渡辺津は瀬戸内海と京を結ぶ拠点でした。熊野詣の際は、京都から淀川を下り、渡辺津で上陸するという熊野への出発点でもありました。
現在の川べりの風景からは、そんな港があったというのは想像もできません。

渡辺津記念碑

坐摩神社行宮

坐摩神社行宮の拝殿前には狛犬ならぬ狛しらさぎが立っていました。
坐摩神社は神紋も「しらさぎ」です。これは神社創建のとき、しらさぎが多く集まる場所に坐摩神を祀ったことに由来しているようです。

坐摩神社行宮の拝殿前の狛しらさぎ

行宮の境内には坐摩大神を奉祀したという鎮座石が残っています。
ガラスケースに納められた鎮座石は複雑に割れていました。
もとは方五丈の大きさだったといいますから、15メートルを超す巨大な石だったようです。

鎮座石

都会の真ん中に鎮座されている坐摩神社ですが、古い歴史といろいろなエピソードを持った神社でした。