吉備津彦神社の回廊を抜け、吉備の中山遊歩道を登りました。遊歩道のそばを細谷川が流れています。
古来、多くの歌人が吉備の中山を訪れて歌を詠んだことが説明板に書かれていました。
「真金吹く 吉備の中山 帯にせる 細谷川の 音のさやけさ」という歌が新古今和歌集にあります。吉備の中山の山並みを帯のように囲む細谷川の音の清々しさを表現しているそうです。
「真金吹く」は吉備にかかる枕詞で、吉備は鉄生産の地と認識されていました。

遊歩道を歩いて、しばらくすると中山茶臼山古墳に到着しました。
3世紀後半から4世紀初めの古墳時代前期に築かれたとされる全長105メートルの前方後円墳です。
吉備津神社ではここを御陵と呼んでいます。
山頂にも関わらず、想像以上に広々としていました。

宮内庁によると、古墳の被葬者は大吉備津彦命となっています。
大吉備津彦命は第7代孝霊天皇の皇子で、元の名は比古伊佐勢理毘古命(ひこいさせりひこのみこと)。
四道将軍の一人として西道に派遣されて吉備を征服したといいます。
温羅伝説では温羅を倒した人物です。

古墳の後円部の墳頂部の近くに穴観音と呼ばれる石造物があります。
中央の石には石仏が刻まれて、側面に穴が開けられているといいますが、赤い前垂れがつけられているので、どれがその石かわかりませんでした。
ここは古墳後円部の墳頂部の正面にあるので、これらの石は古墳の被葬者を拝むときの磐座で、古墳ができたときからこの場所にあったと考えられているそうです。

この穴観音の下に八徳寺があります。
説明板には次のことが書かれていました。
この場所には、山岳仏教が盛んであった平安時代末期に「高麗寺」の金堂があったと考えられている。周辺の土中からは布目瓦が出土しており、金堂の礎石が列をなしているのが発見されている。明治4 (1871)年3月に倉敷県庁に提出された「一品吉備津宮社記」によれば、八徳寺は「波津登玖神社」であり、祭神は「温羅命」となっている。このことから、中山茶臼山古墳には温羅命が祀られているとする研究者もいる。
八徳寺の説明板より

八徳寺はもとは温羅をお祭りする神社で、中山茶臼山古墳の被葬者は大吉備津彦命ではなく温羅である可能性があるみたいです。
果たして、この古墳に眠る本当の被葬者は誰なのでしょうか。
古代では吉備の中山の南は「吉備の穴海」と呼ばれる海だったことがわかっています。吉備津神社の「津」は港の意味です。吉備は九州、大陸とつながる重要な拠点でした。
吉備の中山の山頂にある中山茶臼山古墳。
ここに眠っているのは吉備を統治した偉大な首長であったことは疑いようもありません。