淡路・淳仁天皇陵

アワイチのサイクリング中、海岸線を走るルートを離れ、兵庫県唯一の天皇陵である淳仁天皇陵に立ち寄りました。
南あわじ市には、淳仁天皇陵、淳仁天皇の母である当麻夫人の墓、淳仁天皇の遺体を葬ったと伝わる大炊神社、遺体を火葬したと伝わる野辺の宮、そして淳仁天皇が最初に埋葬されたと伝えられる丘の松など、淳仁天皇に関する史跡が点在しています。

淳仁天皇が淡路に流されるまでの経緯

天平宝字2年(758)、淳仁天皇が即位し、譲位した孝謙天皇は上皇になりました。
淳仁天皇の後見人は、当時の最高権力者である藤原仲麻呂でした。しかし、淳仁天皇が即位しても改元が行われずに天平宝字のままだったことから、孝謙上皇の力が強かったことが伺えます。
ちなみに、淳仁天皇は孝謙上皇の実子ではありません。女帝である孝謙上皇には子がなかったのです。

その後、孝謙上皇の母である光明子の死去や、道鏡の出現などがあり、孝謙上皇と淳仁天皇の関係は悪化していきました。
天平宝字8年(764)9月、藤原仲麻呂の乱が発生。朝廷軍(孝謙上皇軍)に敗れた藤原仲麻呂は殺されます。
その1ヶ月後、淳仁天皇は廃位され、淡路に流されました。戦いに勝利した孝謙上皇は重祚し、称徳天皇として即位しました。

淳仁天皇陵

淳仁天皇陵

淳仁天皇陵は県道76号線沿いにあります。宮内庁に管理されており、陵内に入ることはできません。
淳仁天皇は廃位されたため、当初は天皇として認められず「淡路廃帝」と呼ばれていましたが、明治3年(1870)に淳仁天皇の名が贈られました。この陵も明治になってから淳仁天皇陵として比定されました。

遙拝所

当麻夫人墓

当麻夫人墓

当麻夫人は淳仁天皇の母親です。流罪になった淳仁天皇とともに淡路に来て、同時期に亡くなったとされています。
二人は淡路でどういう暮らしをしていたのでしょう。

大炊神社

大炊神社には淳仁天皇の墓地と伝えられる天皇塚があり、淳仁天皇が祀られています。
淳仁天皇は配流の翌年、天平宝字9年(765)に逃亡を図りましたが、淡路守佐伯助らに捕らえられて失敗。その翌日に崩御されたと記録されています。
これは、淳仁天皇を再び天皇に擁立しようとする動きを知った称徳天皇の意向を受けて殺害されたという説もあります。

神社にある説明板には以下のことが書かれていました。

配流された翌年の天平神護元年(七六五年)十月二十三日に、この地でなくなられ御遺体はここ天皇塚に埋葬されたと伝えられています。
住民は今も、霜よけの「こも」を編み、埋葬場所と伝えられる杉の木の根本にかけ、天皇の霊を慰めています。

大炊神社説明板より
大炊神社天皇塚

奥には石仏があり、その前に竹を組んだものが置かれています。
こうやって「こも」が存在することに感心しました。

「こも」

野辺の宮

野辺の宮は淳仁天皇をお祀りしており、その遺骸を火葬したと伝えられています。
野辺の宮は入口には鳥居がありますが、境内ではグランドゴルフが行われており、一般的な神社の雰囲気とは異なっていました。

野辺の宮

丘の松

野辺の宮から100メートルのところにある丘の松は仮埋葬の地と伝えられています。
明治3年に淳仁天皇御陵が比定された後、御陵参考地とされました。
ここは宮内庁に管理されていて、中に入ることはできません。

丘の松

淳仁天皇は淡路へ配流の後、崩御されてから1200年後の明治3年に再び天皇と認められました。
長い年月を経てもなお淳仁天天皇の史跡が残されていることは、すばらしいですね。