淡路・高田屋嘉兵衛

淡路島西岸の淡路サンセットラインを走っていると、「高田屋嘉兵衛邸宅跡」と書かれたのぼりが見えてきました。
高田屋嘉兵衛が淡路島出身であることは知っていましたが、アワイチの途中で出会うとは思いもよりませんでした。

邸宅跡には建物はなく、再建された井戸跡と大きな顕彰碑が建っていました。

邸宅跡近くのウェルネスパーク五色には「高田屋顕彰館・歴史文化資料館 菜の花ホール」という高田屋嘉兵衛の資料館があり、高田屋嘉兵衛の墓が残されています。

資料館には日本の船の歴史や物産輸送の話、当時の日露関係、ゴローニン事件、嘉兵衛とリコルドの関係など、豊富な資料が展示されています。

顕彰碑の碑文と合わせて、高田屋嘉兵衛、江戸幕府、そしてロシアの動きを簡単にまとめてみました。

ゴローニン事件前の高田屋嘉兵衛

明和6年(1769)、淡路の都志本村に生まれる。15歳で若衆組に属し、船乗りの経験を積み、18歳で淡路・大阪間の航海を体験する。
寛政4年(1792)、兵庫津に移る。
寛政8年(1796)、千5百石積み(約230トン積み)の辰悦丸を手に入れる。
寛政9年(1797)、蝦夷地に進出。箱館(函館)を拠点とする。
寛政10年(1798)、近藤重蔵に会う。
寛政11年(1799)、択捉島への航路を開く。
寛政12年(1800)、択捉島で漁場を開く。島民に物資を与え、漁法を教える。
享和元年(1801)、幕府から蝦夷地定雇船頭に任じられ、苗字帯刀を許される。
文化3年(1806)、大阪奉行から蝦夷地産物売り捌き方に任免される。
文化6年(1809)、箱館大火災。被災者の救援活動と復興事業を率先して行う。

幕府とロシアの活動

天明5年(1785)、最上徳内 千島、樺太を調査。
寛政4年(1792)、最上徳内 樺太を調査。ラクスマンが根室に来航。大黒屋光太夫ら日本人漂流民を返還する。
寛政10年(1798)、近藤重蔵ら 択捉島に「大日本恵土呂府」の標柱を建てる。
寛政11年(1799)、東蝦夷地仮上知が行われる(幕府による直轄)。
文化元年(1804)、レザノフが日本人漂流民を伴い長崎に来航。幕府は交易を拒否する。
文化2〜3年(1805〜1806)、フヴォストフが樺太、択捉を襲撃。幕府は「ロシア船打払令」を出す。
文化6年(1809)、間宮林蔵が樺太を探検し、樺太と大陸は海峡であることを発見する(間宮海峡)。

ロシアに対して警戒を深めていたときに事件が起こりました。

ゴローニン事件

文化8年(1811)5月、ロシア軍艦ディアナ号が千島列島の測量を行う。国後島で、補給を求めて上陸した艦長のゴローニンら7名が捕らえられる。

文化9年(1812)8月、リコルドは軍艦二隻で来航し、七人の返還を要求するが、幕府は返答をせず。
リコルドは国後島を航行していた観世丸を拿捕。乗船していた嘉兵衛ら6名を捕らえる。
カムチャツカ港へ連行された嘉兵衛は、数カ月でロシア語もわかるようになった。
嘉兵衛はリコルドに対し「ゴローニンらが捕らえられたのは、フヴォストフらの襲撃が原因である。襲撃が無許可で行われたことを幕府へ釈明をすれば、ゴローニンたちは釈放されるだろう」と伝えた。

文化10年(1813)6月、ディアナ号 国後島に来航。嘉兵衛が現地役人と交渉し、リコルドに幕府からの書簡を渡す。それは、フヴォストフらの襲撃がロシア皇帝の命令でないことを証明すればゴローニンを釈放するというもので、嘉兵衛の言ったとおりのことが記されていた。

9月25日、ディアナ号 箱館に寄港。オホーツク長官からの弁明書が箱館奉行に差し出され、幕府はゴローニンら7名を返還。こうして2年にわたる両国間の問題が解決した。

10月10日、ディアナ号が箱館を出港する際、見送る嘉兵衛に対し、ディアナ号から「ウラー・タイショウ(大将・万歳)」を三唱する声が響いた。

その後

高田屋嘉兵衛は文化11年(1814)に兵庫、文政7年(1824)には淡路に戻り、晩年を過ごす。
文政10年(1826)、59歳で死去。
明治44年(1911)に生前の功績に対して正五位が追贈される。

ゴローニンは日本での捕囚を書いた『日本幽囚記』を出版した。その後、海軍中将に就任。天保元年(1831)に亡くなった。

リコルドは『対日折衝記』を出版。その後、ロシア・トルコ戦争、クリミア戦争で戦う。海軍大将まで昇進。安政元年(1855)に亡くなる。

平成11年(1999)、高田屋嘉兵衛生誕230年を記念して、高田屋嘉兵衛、リコルド、ゴローニンの子孫がウエルネスパーク五色に招待される。

平成18年(2006)、ゴローニンとリコルドの子孫の提案により、カムチャッカ半島のナリチェヴォ自然公園の3つの山に高田屋嘉兵衛、リコルド、ゴローニンの名前が名付けられた。
2009年、高田屋嘉兵衛、リコルド、ゴローニンそれぞれの子孫が山のふもとで再会した。

高田屋嘉兵衛の墓地近くの石碑には、第80代内閣総理大臣・羽田孜氏により「日本の誇る高田屋嘉兵衛翁 此の地に眠る」と揮毫されています。

この事件に出てくる3人の人物。高田屋嘉兵衛、リコルド、ゴローニン。それぞれがすばらしい人だったと思います。

松前奉行が送った祝辞の一部として次の言葉がありました。
「各国それぞれ相異なる固有の習慣を有しているが、真に正しきことはいずれの国においても正しきものと認められる」

言葉が通じず、日露辞書もなければ、お互いの国に対する知識もない。
そのような状況下で、高田屋嘉兵衛とリコルドはお互いに相手を理解し、信頼し、友情を育み、問題を解決しました。

それにしても、リコルドが拿捕した船に高田屋嘉兵衛が乗っていたのは、まさに奇跡と言えるでしょう。
高田屋嘉兵衛ではなく他の誰かだったら、日本とロシアの関係は大きく変わっていたかも知れませんね。